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デュシャン的思考——竹岡雄二

壁面に設置された長方形の黄色い立体作品
竹岡雄二「シャドー・ボックス 金箔」2006–07年、木・金箔・漆、20×50×20cm、作家蔵

あるものがギャラリーの台座に置かれることで「芸術」となり得るのなら、台座そのものもまた芸術とされるべきではないか?

竹岡雄二の彫刻は、マルセル・デュシャンの論理を引き継ぎながら、それを別のかたちで展開している——あるものがギャラリーの台座に置かれることで「芸術」となり得るのなら、台座そのものもまた芸術とされるべきではないか? SCAI Piramideの一室で来場者を迎えるのは、壁面から小さく突き出した金色の直方体「サイト・ベース・ゴールドⅠ」(2024)である。ドア枠ほどの高さに据えられたこの作品は、壁に幾何学的な黄色の反射と灰色の影を生み、空間にわずかな緊張をもたらす。竹岡は1984年から台座作品に取り組み、それ以前にはすでに壁面作品も制作していたが、本展にはこのように空間に応じて新たに制作された作品も含まれる。奥の部屋には、畳ほどのサイズの「無題」(1989)が床に置かれている。ガラスに収められた緑青色の銅板は、六本木ピラミデの青みを帯びたガラス外壁を思わせ、内部の展示空間と建物外部の景色を静かに結びつけている。「壁台座」(1985)では一転してテラコッタが用いられ、コリント式建築を思わせる葉状の装飾が施されている。目に見えない一点から壁に固定され、床からおよそ1メートルの位置に浮かぶその姿は、本来あるはずの柱の胴体を欠いたまま、失われた量感をかすかに想起させる。「無題」(1984)は、白木の標準的なギャラリー台座のかたちを取るが、その下には手作業の痕跡を思わせる不均質な円盤が挟み込まれている。台座、壁、床といった空間の前提となる要素を組み替えることで、支持体と対象の境界に微かなずれを生じさせている。

A glass box in an empty whjite romo with a small ledge in the corner
「everything for freedom」2025年(展示風景)、作家提供

ギャラリーの奥には、「ブロンズの台座」(2012)が置かれている。二つの縁が緩やかに湾曲した、量感のあるブロンズ板で、そのかたちは花瓶などを載せる日本の家具「花台」を連想させる。その深い緑を帯びた酸化の風合いゆえに、伝統的な花台よりもむしろ古代中国の青銅礼器を思わせる気配をまとっている(こうした青銅器は、台座を芸術として捉える比喩としても相応しいといえる)。一方、「撥」(2025)は伝統的な日本の素材に見えるもの(実際には人工大理石を漆器ふうに仕立てたもの)を、見慣れぬ造形へと変容させている。磨き上げられた赤い表面は緩やかな勾配を描き、変形した椀のようにも、あるいは作品名が示すように三味線の撥を削り出して巨大化させたもののようにも見える。部屋の奥には「シャドー・ボックス 金箔」(2006–07)が展示されている。入口で飾られていた作品に似た金色の壁面作品だが、こちらは表面が金箔で覆われ、右前方の角から作品全体の約20分の1にあたる立方体が切り取られている。「サイト・ベース・ゴールドⅠ」とは異なり、視線よりわずかに低い位置に置かれたこの作品は、周囲を映し込む代わりに、鑑賞者自身の像を反射する。欠けた部分を覗き込むと、取り除かれた立方体の影の奥に、もう一つの立方体が潜んでいるように見える。まるで作品の内部を透かして、その塊としての構造をのぞき込んでいるかのようだ。その効果は、言葉では捉えきれない性質を帯びている。見えるはずのないものが現れ、触れられないはずの気配が立ち上がる——そうした不可思議な次元こそ、竹岡雄二が彫刻で追い求めている領域なのだろう。むき出しの台座は、見る者をその境界へと誘う装置として機能している。

文=トビー・レイノルズ (翻訳=野坂賢利

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