マティス(1869–1954)は本稿を1954年2月6日号『Art News and Review』(後の『ArtReview』)に寄稿した。同号の表紙には、ニューデリーにおける児童美術展の報告と、匿名の11歳の少年(少女)による自画像が掲載されていた。この時すでに高齢であったマティスは、この9カ月後に亡くなった。1950年代には、ヴィクター・パズモア(Victor Pasmore)やパトリック・ヘロン(Patrick Heron)を含む多くの芸術家が、『Art News and Review』の記事の相当部分を執筆していた。
初出:『Art News and Review』 1954年2月6日
創造は芸術家の真の機能である。創造のないところに芸術はない。だが、こうした創造力を生まれつきの才能に帰するのは誤りであろう。芸術において、真の創造者とは、単に才能ある存在ではなく、諸々の活動の複合体を、その定められた方向へと至らしめることに成功した者であり、その成果として芸術作品が生まれるのである。
したがって、芸術家にとって創造は視覚から始まる。見るということそのものが創造的な営みであり、努力を要することだ。程度の差こそあれ、日々の生活の中で私たちが目にするものはすべて、習慣によって歪められている。そしておそらく、映画のポスターや雑誌が毎日大量の既製イメージを私たちに提示し、それらが精神にとっての偏見と同様、眼にとっての偏見となっている今のような時代には、その歪曲は、より明白なのだ。

歪みなく物を見るために必要な努力は、何か勇気にも似たものを要する。そしてこの勇気は芸術家にとって不可欠なものだ。芸術家は、すべてのモノをまるで初めて見るかのように見なければならない。子どもの時に見つめたように、生命を見つめねばならない。その能力を失ってしまっては、独創的、すなわち個人的な方法で自己を表現することはできないのだ。
例を挙げよう。思うに、真の画家にとって、バラを描くことほど難しいことはない。なぜなら描く前に、かつて描かれたすべてのバラをまず忘れなければならないからだ。ヴァンスに私を訪ねてきた客人たちに、私はしばしば道端のアザミに気づいたかどうか尋ねたが、誰も見てはいなかった。彼らはみな、コリント式柱頭にあしらわれたアカンサスの葉なら見分けられただろう。だが、その柱頭の記憶が、自然の中にあるアザミを見ることを妨げていたのだ。創造への第一歩は、すべてをありのままに見ることだ。そしてそれは絶えざる努力を要する。創造することは、自分の内にあるものを表現することなのだ。すべての創造的努力は内側から生じる。私たちは自らの感覚も養わねばならず、それは周囲の世界から得られる素材によってのみ可能となる。これこそ、芸術家が外界を自己の内へ取り込み、徐々に同化していくプロセスだ。それは、描こうとする対象が己の存在の一部のようになるまで、つまり対象を自らの内に宿し、それを自らの創造としてキャンバスに投影できるようになるまで続くのである。

肖像画を描くとき、私は幾度となくスケッチに立ち返るが、そのたびに私は新しい肖像を描いているのだ。それは、前より上達しているのではなく、まったく異なるものを一から始めているのであり、毎回同じ人物から別の存在を引き出しているのである。習作をより完全なものにするために、私はしばしば同じ人物の異なる年齢の写真を参照してきた。最終的な肖像画が、その人物が私の前に現前する姿とは違う、より若い姿や別の側面を示すこともある。その理由は、私にとってそれが最も真性であり、モデルの本当の人格を最もよく明らかにしているように思われたからである。

したがって、芸術作品とは長きにわたる準備作業の極致なのだ。芸術家は自らの内なる視覚を養うあらゆるものを周囲から取り込む。まさに今描いている対象が作品の構図に直接的に現れる場合もあれば、類推的に現れる場合もある。このようにして芸術家は創造できる状態へと自らを置く。習得したあらゆる形態を内に蓄えて豊かにし、それらをいつか新たなリズムに乗せるのだ。
このリズムの表現においてこそ、芸術家の仕事は真に創造的となる。それを達成するためには、ディテールを集積するのではなく、むしろ取捨選択しなければならない。たとえば、あらゆる組み合わせの中から、最も多くを表現し、ドローイングに生命を与える線を選び取らねばならない。芸術家は、自然の事実を芸術に転化させるための同義語を探し求めなければならないのである。

私の作品《マグノリアのある静物》では、緑色の大理石のテーブルを赤く描いた。また別の箇所では、海面に射す太陽の反射を示すために黒を使った。これらの転換は偶然や気まぐれによるものでは全くなく、一連の探求の結果、構図の他の要素との関係性ゆえに必要なものだと思われたからである。与えたい印象を実現するためだ。色彩と線は力である。創造の秘密は、これらの力の働きと均衡にある。
ヴァンスの礼拝堂では、それ以前の私の研究の成果として、その力の均衡を達成しようと努めた。ステンドグラスの青、緑、黄が礼拝堂の中の光を構成しているが、その光はグラスに使われた色ではなく、相互に混じり合った生きた産物である。この色彩によって成る光は、窓に面した、白と黒のステンシルで装飾された壁に作用することを意図しており、そのために壁に描かれた線は大きく間隔を空けて配置されている。この対比によって、光に最大限の生命力を与えることができ、小さな寸法だが、無限の広がりの印象を与えるべきこの空間全体を彩り、温め、鼓動させるための本質的要素とすることができる。礼拝堂全体にわたり、あらゆる線、あらゆる細部がこの無限の広がりの印象に寄与している。

芸術が自然を模倣すると言えるのであれば、その意味するところはここにあると私には思われる。すなわち、創造する者が芸術作品に吹き込む生命によってである。芸術家によって生命が吹き込まれた作品は、私たちが自然の事物に見出すような心を震わせる力、まばゆいばかりの美しさを帯び、豊饒なものになるだろう。
この効果を得るには、偉大な愛が必要だ。その愛は、真理へ向けた辛抱強い努力、燃え立つ温かさ、そしていかなる芸術作品の誕生にも伴う分析的な深みを鼓舞し、支えうるものでなければならない。だが、すべての創造の起源とは、愛にほかならないのではないか?
(翻訳=佐藤慎一郎)
