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2025年版「Power 100」——読み解きガイド

A collage of individuals on the power 100 list

「Power 100」は、ArtReviewが毎年発表している、美術界における影響力の様相を示す年次リストである。その年に影響を与えた個人や集団を取り上げ、どのアートが「見られ」、どのように受容されたのか、その動向を示している。同時にそれは、ArtReviewが美術界を本質的に「社会的構造」、すなわち個々の行為によって駆動される関係性のネットワークとして捉えていることの表れでもある。

そうしたネットワークにおいては、個々の行為が関係のあり方を変容させ、その解釈の違いが次なる行為を生みだすため、議論は往々にして細部にまで及ぶ。こうした複雑さを前に、本リストでは要点を絞り、あえて単純化し、可視化する装置として提示されている。それはつまり、ArtReviewが、美術界を単なる経済指標(誰が作品を最高額で購入し、どのギャラリーが最高額で販売し、どのアーティストが最も高価な作品を制作し、どの美術館がそれを展示したか)としてのみではなく、あるいは嗜好の序列(選考チームが最も好む作品は何か)としてのみ捉えるものではない、という前提に立っているのである。

もしこの説明が凡庸に聞こえるなら、本リストには別の読み方もある。空白や不在に目を向ける読みだ。誰が、あるいは何が掲載されていないのか、過去1年間にどのようなアートが見過ごされてきたのかを可視化する装置として読むこともできる。もっとも、その問いに対する答えが「ほとんどすべてだ」ということは、本誌自身、よく承知している。重要なのは、このリストが理想像を提示するものではなく、現実の一断面を描こうとする試みであるという点である。主観や嗜好が前景化しがちな領域において、なお確かな手がかりに近づこうとする試みである。芸術が「人びと(ときに人間を超えた存在)に自由に語る場を与えるものだ」という常套句を繰り返すならば、意見が錯綜し、視界が曖昧になるという代償を引き受けねばならない。こうした一切こそが、いささか迂遠ではあるものの、ArtReviewが本リストを作り続けてきた理由である。そして、この作業に終わりはない。何故なら美術界とは、見えているものと同じだけの事柄を、常にどこかに隠し持つ場だからである。

個人の域を越えた影響力をもつ人びとについて言えば、このリストは、何が公的な可視性を獲得するのかを規定する諸力ー露わなものも、見えにくいものもーを照らし出す地図としても読み解ける。資金や不動産は容易に数値化できるが、影響力や着想はどのように測りうるのか。本誌が採用している方法はこうだ。まず、世界各地の美術界のさまざまな分野から約30名を招き、選考チームを編成する。なかには、別の年であれば自らが本リストに名を連ねていてもおかしくない面々も含まれる。彼らから、自身のローカルな文脈において過去1年間のアートを方向づけた人物の名を挙げてもらう。そして序列や評価について、直接的または間接的に(本誌が仲介して)議論を交わす。賛同の意見をメールで寄せる者もいれば、難色を示す者、長文の分析を寄せる者、あるいは朗読会のような場でそっと耳打ちしてくる者もいる。そうした意見を本誌が取りまとめ、ときには見方の偏りや前提を見直すために新たな寄稿者を加えることもある。選考基準は次の三点である。第一に、「Power 100」に名を連ねる各人が、現在制作・展示されているアートに実質的な影響を及ぼしていること。第二に、その影響が現在進行形で作用していること (たとえばオルフェミ・O・タイウォ、キャサリン・リュー、ジュディス・バトラー、フレッド・モートンといった思想家は直近12ヶ月間に著作を刊行していなくとも、その思考は具体的な効果を及ぼしている)。第三に、その影響がローカルな場を越えて国際的な反響していることである。

リストである以上、ある程度の簡略化は避けられない。それは全体像を捉えるための代償である。「Power 100」では便宜上、アーティスト、キュレーター、ギャラリスト、美術館長、資金提供者、思想家といった区分が当てられる。もっとも、現実にはそのどれか一つに収まりきらない人々が大半である。とりわけ、今年の首位に立つ人物は、その典型と言えるだろう。それは異なる側面を同時に扱うための仮設的な整理にほかならない。

補足すると、2002年の初回版「Power 100」に名を連ね、今年のリストにも掲載されているのは、わずか8組だけである。そのうち現在もトップ50に残っているのは、キュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストただ一人である。この事実は、美術界が革命的に変化してきたわけではないにせよ、「グローバル化」という言葉がまだ新しかった頃と比べ、今日の世界の美術界が大きく様変わりしたことを物語っている。同時に、変わらぬ構造が根強く残っていることも否定できない。とはいえ、「グローバル化」が、同時に多極化した世界の到来を意味するのだとすれば──すなわち、影響力が従来の中心地から周縁へと分散しつつあるのだとすれば──その輪郭は、美術界においてもすでにはっきりと可視化されていると言えるだろう。もっとも、美術界がようやくその事実を言語化し、認識しはじめたからといって、現実世界における変化そのものが、ここ最近になって始まったわけでは決してない。

本リストで首位に選ばれたイブラヒム・マハマを、地理的な勢力図の変化の証しとして語りたくなる向きもある。たとえば、今年亡くなったキュレーターのコヨ・クオを引き合いに出し、来年のヴェネツィア・ビエンナーレで彼女のビジョンが実現すること(その影響の軌跡は本リストにも読み取れる)に触れながら、「グローバル・サウスの台頭」を称える——それは、美術界が「正義」を語るときの典型的な言い回しのように聞こえるかもしれない。だが、マハマがアフリカ大陸出身者として初めて首位に立ったのは、出自ゆえではない。むしろ、それは彼が何をしてきたかの結果であり、このリスト全体が意図より行為と実践を重んじていることの表れでもある。さらに言えば、マハマは今日の多くのアーティストに見られる動向——作品や資金の流れだけでなく、制作のプロセスそのものまで自分たちで管理しようとする動き——の象徴でもある。ワエル・シャウキーはアートフェアを「キュレーション」し、ホー・ツーニェンはビエンナーレの芸術監督を務める。こうした動きは、美術界を支えてきた仕組みや制度、習慣といった旧来のやり方が、ところどころで力尽き、ほころび初めている兆しとも言える。その衰退の只中から、古い枠組みの崩れを足場に、新たな手法を模索する人びとが現れ始めている。

マハマと同様、このリストに挙げられた多くのアーティストは、いまだギャラリーを通じて作品を販売し、美術館やビエンナーレに出品するといった、いわば既存の枠組みに留まりつつも一方で、自分たちの活動を支える場や仕組みそのものを自らの手で築き始めている。そこには、作品制作と美術界そのもののかたちづくりとの距離を縮めようとする意識がうかがえる。具体的には、アーティストのためのレジデンス・プログラムの設立(インカ・ショニバレ、マーク・ブラッドフォード、トレイシー・エミン)、アートセンターや学校の設立(シアスター・ゲイツ、マリーナ・アブラモヴィッチ、エミリー・ジャシール)、さらにはビエンナーレやフェスティバルを通じた新たなエコシステムの形成(ボース・クリシュナマチャリ、サミー・バロジ)などが挙げられる。こうした取り組みの多くは、商業的・行政的・慈善的なリソースがこれまで十分には行き届いてこなかった土地や文脈を舞台に生まれている。またフォレンジック・アーキテクチャーやblaxTARLINES、Cercle d’Art des Travailleurs de Plantation Congolaiseといったグループは、自分たちの活動をどのような経路で流通させ、誰に届けるのかを根本から捉え直し、美術界の経済——そこに蓄積された富——を、まったく異なる社会文脈へと意識的につなぎ直そうとしている。

こうした動きの多くは、資源の再分配や、ときに脱植民地化を目指す意識をともなった、利他的な試みでもある。同時に、その背景には、ギャラリーシステム ー アートを現金へと換えることで美術界を支えてきた商業的な担い手たち ー が、いま大きな転換期に直面しているという認識も存在する。主要なアートの拠点では、中堅ギャラリーの閉廊が相次ぎ、世界的なメガギャラリーにおいても、地域によっては、新聞報道で九割近い利益減少が伝えられている。しかしそれは、アートに資金が不要になったことを意味するわけではない。むしろその必要性はいっそう高まっていると言ってよいだろう。この1年間で多くのパトロンは、かつてのようにアートフェアなどで半ば公開的なかたちで作品を買い集めるのではなく、従来の仲介者を介さずに、自ら運営する私設美術館や財団、委託組織、あるいは単なるロゴ掲出を超えた企業支援の枠組みを通じて、アーティストに直接資金を提供するようになってきたのだ。もっとも、本誌はこれをまったく新しい現象だと見なしているわけではない。こうしたあり方は、君主制の時代からルネサンス、植民地期や産業化の時代を経て現在に至るまで続いてきた、私的なパトロネージの系譜に連なるものとも見なせるからだ。それでも、こうした変化の帰結として、ArtReviewのリストに残っているギャラリーの多くーその数は過去と比べて明らかに減少しているーは、もはや単に作品を売る場ではない。デイヴィッド・ツヴィルナーはアーティストブックやジン、美術史に関する論考の復刻などを含む出版活動を継続的に展開している。ペロタンはファレル・ウィリアムスをグループ展のキュレーターに招く一方、パリ・ファッションウィーク期間中にはキャットウォークの会場ともなり、クリエイティブ産業のあいだに存在する境界の流動性を可視化している。またハウザー&ワースやグッドマン(マリアン・グッドマンとは別)、Experimenterは教育プログラムを企画し、Experimenterといったギャラリーは、教育プログラムやキュレーション・ワークショップを通じて、従来の枠を超えた規模のエコシステムをつくり出そうとしている。

とはいえ、「本当に新しい動き」を求めるのであれば、このリストの上位に湾岸諸国の存在感が顕著に増していることに目を向けるべきかもしれない。彼らは、石油に依存した経済構造からの転換を図る手段として、また国家としてのイメージを磨き上げる手段としても、アートと文化に莫大な資源を投じ続けている。文化戦争と緊縮財政が激化する米国(本来は独立性を保つはずの連邦政府が運営する美術館のプログラムにまで、ドナルド・トランプの大統領令が干渉している)、ドイツ(イスラエル・ガザ紛争をめぐる言説を規制する文化政策が、かつて活況を呈していたアートシーンに表現の自由の危機をもたらしている)、そして財政難と迷走にあえぐ英国といった、従来「アート大国」とされてきた国々とは対照的に、アラブ世界は、アーティストやキュレーターが実践を拡張するための重要なプラットフォームとなりつつある。こうした状況が、アートには政治や社会に間接的な影響を及ぼす力があるのだという一般的な信念の現れだとするなら、そのことはダイアナ・キャンベルのようなキュレーターの仕事にも明確に見てとることができる。彼女が手がけたブハラ・ビエンナーレは、多くの美術関係者にとって地図上の位置さえ即座には思い浮かばず、観光やアートの目的地としてほとんど意識されてこなかったような土地に、あらためて国際的な視線を向けさせる契機となった。

今年のリストには「アートはいかなるものでありうるのか」「いま、何ができるのか」そして「誰のためのものなのか」をめぐって、互いに異なる考え方をもつ担い手たちが並んでいる。互いに競い合う関係にある者もいれば、まったく別の領域で活動する者もいる。この数年は、変わりつつある世界秩序の厳しい現実を前に、アートが抱える限界そのものを露呈させてきた時期でもあった。もしこのリストが、かつて西洋が主導してきた美術界の時代が終わりつつあることを示す地図なのだとすれば、いま問われているのは、新たに台頭しつつある各地域のアートシーンが、何を、どのようなかたちで国際的に共有し、やり取りしていくのかという問題である。かつての中心地の衰退は、単に別の場所が新たな中心として覇権を握ることに置き換わるだけなのかもしれない。長らくアートのヒエラルキーを支えてきた基盤——美術館やギャラリー、アート市場——が揺らぎ始めているいま、そこで立ち上がりつつある新たなモデルは、果たして本当に新しいものなのだろうか。それとも、形を変えただけの旧来の構造に過ぎないのだろうか。

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