最新のインスタレーションではロマンチシズムを匂わせ、静寂性を見せたCOBRA
「エア・クオート」というジェスチャーがある。顔の横で人差し指と中指でクオーテーション・マークを作ることによって、発した言葉をアイロニックな意味で使っていると相手に合図する。ある言葉をはなし、その言葉とは違う意味を伝えるということは意図的に曖昧さを作ることなので、「本当はそういう意味じゃなかった」という逃げ道工作だと私は思っている。Cobraの作品はアイロニカルなユーモアを使ったものが多く、ぱっと見、コンテンポラリー・アートというよりも、自らの身体やコスチュームを使った芸人のネタのように見えるものが多い。尚Cobraは自分の体をマテリアルと捉えて作品制作しているので、欧米で例えるならエレノア・アンティンやクリス・バーデンのようなボディー・アートの系譜にも繋がるであろう。ただ、作品として友達にライフルで撃たれたバーデンとは違い、アイロニーと「お笑い」を動員することによって、自分を題材としながら本質的な部分は何も晒さない、一見無礼のようで実は何も脅かさない、というのが今までの私のCobraの作品の見解だった。
しかし、Fig.で開催された展覧会「The Play of October Vol. 1」にはお笑いとは一線を画す、ユーモアを使いながらも、アイロニーのみには収束できない批判性を感じた。主の展示作品は《Game of Life Vol. 1–100》(2025年)だ。Fig.の上部と下部二層に分かれた難しい空間は1から100の数字がステンシルを使い白字でプリントされた四色のタイルカーペットで敷き尽くされ、複数のサイコロ、そしてレディメイドと思わるオブジェが駒として上部に設置された棚に三つ、そしてカーペットの上に更に三つ配置されていた。壁には作家自身が睡眠時無呼吸症候群の診察中に撮ったカラーの顔写真が印刷されたレコード《COBRA’s 4’33’’ -Sleep Apnea Syndrome- Vol. 2–4》(2025年)が飾ってあり、下部にはレコードを聴けるプレーヤーが用意されていた。設置されたレコード《COBRA’s 4’33’’ -Sleep Apnea Syndrome- Vol. 1》(2025年)が再生され、作家の顔が印刷されたビニール盤がグルグル回る。振り回されている感じが半端なく、脳内にDEAD OR ALIVEがかかる:You spin me right ‘round, baby, right ‘round like a record playing, right ‘round, right ‘round.

上部に常設されたテーブルカウンターにはGAME PLANNERと書かれたスコアカードのような紙、鉛筆、そして1から100の各数字が意味する内容が記されたINDEXが用意されており、数字は10の、「始まり/スタジオレンタルステージ」「展覧会/発表ステージ」や「伝説or消失エンド」といったアーティストのライフ・ステージにカテゴライズされていた。そこには期待通り、観者をクスクスと笑せるような「26. 他人のinstagram画像を無断使用→炎上 +50pt 精神-50pt *「リチャード・プリンスの画集」をget」や、「35.小山登美夫氏が展覧会を見に来た→ラッキー+20pt」など、インサイド・ジョークを散りばめ、多くは作家自身が経験した出来事が表記してあった。上部の壁には欧米由来の芸術運動や用語を日本語の最近のスラングとの関連性を通して説明する図《The Play of October Vol.1》(2025年)が貼られていて、これはDan Grahamの《Side Effect/Common Drug》(1966年)の引用であるが、例えばDadaは「尊い」、「えぐい」、「やばい」とされている。アブジェクト・アートは「エグい」、「グロい」、「しんどい」、「刺さる」。これらからもわかるようにCobraは相当「賢い」。草。
でもそこでは終わらない。評論家の心をくすぐる引用が更に盛られてマシマシなのである。駒の一つはバス・ヤン・アデルが最後の(太平洋横断を試み失踪した)パフォーマンス《In Search of the Miraculous》(1975年)で使ったヨットを真似て塗装されており、レコードの音は、作家の苦しそうな寝息だが、そのトラックの長さは4’33”、ジョン・ケージの最も有名な、演者が楽器を4’33”間弾かない楽曲のタイトルから取られている。ケージの最重要な提案は「サイレンス」そして音響によるその不可能性、そして「チャンス」(機会ではなく偶然性)だが、まさにこの展示はアーティストの生涯を偶然性の産物として表している。この時点で私の心情的反応を現代口語で表現するならば、「エモい」、「刺さる」だろうか。

アーティストの生涯やキャリアを偶然性の産物と表すことがなぜ批判的なのか?まずこの展示会期間中にはアートフェアArt Week Tokyoが開催されていたが、このタイミングは意図的であろう。そのようなアートフェアでの出品や美術館やメガ・ギャラリーにて展示されることが偶然ではなく、作品の優位性のための必然的結果という解釈を促すのが近代以来の美術界の最大の神話である。美術史家リンダ・ノックリンは神話的な「芸術的才能」という解釈をまるで「金塊」を持って生まれたようと例えている。ノックリンの論文はジェンダーの視点から美術史の制度を分析しており、女性として生まれた人間には「芸術的才能」がないという差別的な考えを批判しているが、要するにこれは「親ガチャ」的思考であり(ただこの場合自分についてではなく、他者、男が女に関して使う理論)、ハズれた者には成功しようがないというものだ。
ノックリンはそれに対して、ピカソのような作家は生まれつき「天才」だからではなく、「物質的な条件」が揃っていたから作家性が伸ばせたのであろうと答えている。もちろんノックリンは「親ガチャ」論者のように、だから未来を変えることはできないといった厭世観はもたない。「物質的な条件」がそろえば性別とは関係なく「良い作家」になれると論じている。
Cobraの展示は、「物質的な条件」が偶然揃ったり揃わなかったりするのがアートだと示唆しているが、その偶然性を悲観せず、現状を呪われた過去の症状とも解釈せず、可能性と生成変化に満ちたチャンスとして捉えているところがニーチェのいうサイコロ振りをも彷彿とさせ、意外にも全くアイロニカルではない誠心誠意のようなものを感じさせた。最高得点の「100.」には「ダンジェネスで庭作り ゲームエンド」とあるが、最終的にデレク・ジャーマンを引っ張ってくるところも、前述のバス・ヤン・アデルの引用も、ロマンチシズムを匂わせ、作家の趣味嗜好のマジな部分を曝け出しているように思えるのだ。私は院生時代、受講中に教授だったダグラス・クリンプに、自分が誠意を持っていると思う作家を訊かれ、エゴン・シーレとエリック・サティと咄嗟に答えてしまったことがあった。今振り返るとエモい、ハズい、シヌ、シンダ。私の答え同様、Cobraのロマンチシズムはアイロニーに欠けているからこそ、「ダサい」と言われるリスクを伴い、脆さを見せることでもあるが、「エア・クオート」という壁で守られていない、隙のある作品の方が見応えも、考え甲斐もあるだろう。
