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美術批評の「らしさ」とは

道路を走る護送車
『3年B組金八先生』第2シリーズ第24話「卒業式前の暴力②」 (1980)からの静止画

皆さま初めまして。ArtReview Japanese Editionです。2025年が更け、慌ただしい年の瀬から新年へと向かうこの時期に、我々はあらためて美術批評に何ができるのかを自問しています。周知の通り、世界は経済、政治、環境など様々な領域において危機的な状況にあると言えます。かつて中島みゆきは激動の70年代を経て、『世情』(1978)の中で「包帯のような嘘を見破ることで学者は世間を見たような気になる」と唄いましたが、「見破る」ことが批評の醍醐味であるという神話から離れることの重要性を、今強く意識しています。フランスの代表的哲学者の一人ポール・リクールがジークムント・フロイトをめぐって提示した「疑惑の解釈学」とは、表層的な虚像に隠された深い意味の掘り起こしを試みる手法を指しますが、まさに『世情』の歌詞で表象される学者のそれとどこか重なります。少なくとも西洋の現代批評において、疑惑の解釈学は自明の前提として扱われていますが、そのような自明視は思考停止の危うさも意味しているのではないでしょうか。

新たにArtReview Japanese Editionを発刊するにあたり、その可能性を模索する中で見えてきた目標は、批評の思考が自動的に作動してしまう回路、すなわち美術批評の「らしさ」について、あらためて考える余地を確保することです。その一つの参照点として、批評が必ずしも強度の高い解釈をあらかじめ要請する必要はないという可能性を言語化したクィア理論家、イヴ・コゾフスキー・セジウィックの視座に注目してみます。セジウィック曰く疑惑の解釈学が前提とする情緒は「パラノイア」であり、「パラノイド」な批評家は最悪の帰結を常に予期しているため何事にも動じないし、驚かない。このような「パラノイド」で「強い」解釈に対比してセジウィックが提案するのが「弱い」「修復的な解釈」です。彼女は修復的な解釈を行うために、「新しいこと」、「知らなかったこと」の存在可能性を容認することで、初めて現状と異なる未来の展望を想像できると論じています。

また、美術評論家、画家、詩人、そして小説家であったジョン・バージャーが1955年、本誌に寄稿した言葉にも示唆が見出せます。彼は美術批評の役割を「美的経験を同時代の世界で起きている事象とどのように結びつけるか」とし、専門領域の殻に閉じず、他の芸術や文化の動向にも注意深く目を向けるという開かれた批評姿勢を提示しました。ArtReview Japanese Editionは、アート雑誌の「らしさ」という規範的な枠組みに回収されることなく、弱さや脆さをも抱えながら、既存の語りからこぼれ落ちてきた経験や、まだ名づけられていない視点を探り、想像力を通して未来の可能性を描く批評を志向しています。どうぞご期待ください。 

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