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「Pink」展:ジェンダーと色彩理論について

painting by Yoshiko Shimada based on photograph of feminist activist group Chuupiren demanding legalization of birth control pills on April 4 1975 in Kyoto
Yoshiko Shimada Charge! Red knots, 2023 Oil, varnish, thread, canvas 31.8 x 41 cm

去年末パントン社が2026年「カラー・オブ・ザ・イヤー」に白系色を選び、白人至上主義的だと批判されたことにも見られるように、色には意味やニュアンスが付き纏う。その中で、現在Ota Fine Artsで開催中の「Pink」展が「ピンク」色をテーマにしているのは挑戦的である。近代から現代における 家父長制的なアート界は、アートが超越的であり、崇高だという神話を推進し、それらを男性性や公的性と関連付け、それと二項対立する位置に日常性や女性性、そして私的性を置き、その文脈でピンクはおそらく最も女性性とキッチュに強く関連付けられた色であろう。例えに「ピンクハウス」、「ピンク・レディー」、そして「ピンク映画」といった言葉を想像してほしい。

今日ピンクという色が女性性と関連していることは、もちろん普遍的ではなく、生物的起因もない。また、日本には「ピンク映画」や「ピンク街」があるが、英語ではポルノ映画のことを「blue movie」と呼ぶし、アメリカやヨーロッパでは性風俗街を「red light」と形容する。しかし色が社会的意味を象徴することは、形式的要素として線、色彩、そして形態を最重視したクライヴ・ベルやクレメント・グリーンバーグなどのフォーマリスト批評家には拒絶すべき事実であった。特に後者は、上記の二項対立で言うと、男性性、普遍性、そして心や精神を形式と抽象性に結びつけ、排他的に女性性を装飾、身体性や具像性、そして個別性に関係付けた。

そのような背景を踏まえると「Pink」展の作品は考え深い。例えば¥ouadaのアクリル画《Steadfast Tenderness》(2025)には、ピンク色のアヒルの形をしたお風呂で浮かすおもちゃが描かれ、この色のキッチュや幼児性との関係性を描いているがこの英語で「rubber duckie」と呼ばれる遊具には幼児性とは対照的であるはずのピアスが体や顔に打たれている。《Two pleasures plus one (2)》(2025)でも複数のピアスが打たれた耳を舐める、同じくピアスだらけの口と舌が接写された写真に基づいたと思われる構図で具象され同色の性的ニュアンスの解像度を増して示唆している。桃色の粘膜が、身体の外と中を繋ぐ唇、耳、生殖器や肛門といった体腔に配置されているためにも、性的な意味が伴う「pink」であるが、ここではピアスが、非規範的な性行動をさす「kink」とも繋がり、極端なクローズアップが典型的にポルノ映画で使われる形式的手法として引用されている。極端なクローズアップはあらゆる文脈を削ぎ落とし、特に労働や社会的、そして歴史的関係を隠蔽する役割を持つ。

A painting by ¥ouada of an extreme close up view of pierced mouth licking pierced ear
¥ouada Two pleasures plus one (2), 2025 Acrylic on canvas 60 x 60 cm Courtesy Ota Fine Arts, Copyright the artist.

この展示でポルノグラフィーの形式と歴史的文脈を最も直接扱っているのはミン・ウォンである。2019年の《Portrait of M.O (Pink)「色暦偽娘恥辱㊙︎部屋」より》では日活ロマンポルノ映画のために作られたスチールの様な写真の中にミン・ウォン自身が、ピンク色の照明下でポルノ映画女優として捉えられている。そして《偽娘㊙︎恥辱部屋》(2020)ではミン・ウォンが主演する、70年代の日活ロマンポルノ映画の雰囲気と構図を再現した映像が3台のスマホで映されている。「偽娘」は中国語で「ニューハーフ」に似たニュアンスの言葉の様だ。それら映像の舞台設定の精度と迫真性は圧倒的であるが、その中でドラッグ・クィーンのように明らかに「女装」で女を演じるミン・ウォンのイメージがユーモアを生成している。

そして3台のスマホが展示されているスタンドが天井から吊らされたピンクのスリップのようなものに覆われているのも爽快だ。ミン・ウォンは男性である自分をポルノ映画女優としてキャスティングすることによって、性別二元論や性的自律性に関する概念の複雑化を狙っているのだろう。しかし日活ロマンポルノの古典『団地妻 昼下りの情事』(1971)はすでに女性に性的なエージェンシーを与えている。こちらはポルノ映画ではないが1969年にホステスとして働くトランス女性たちを画期的に描いた松本俊夫監督、ピーター主演の『薔薇の葬列』と共に興味ある読者には参照していただきたい。

Installation view of "Pink" exhibition at Ota Fine Arts
Photo by Kanichi Kanegae

当時松本は「ゲイ・ボーイ」たちが政治的な力を持ち得ると思い、彼女たちを『薔薇の葬列』に配役した。嶋田美子は《突撃!千人針》と《自己決定権 千人針》(どちらも2023)で『薔薇の葬列』や『団地妻 昼下りの情事』と同時代の女性活動家グループ「中ピ連」を題材にしている。中ピ連はピル解禁を訴え、女性の自己決定権を主張し、性と生殖に関する健康と権利を求めた。中ピ連は赤ヘル、ではなく、♀印の書かれたピン・ヘルを纏い直接行動を起こし、ピンクを抵抗の色としての再解釈を促進した。嶋田は油絵の上に刺繍をすることによって、アート(男性性)と工芸(女性性)の二項対立を脱構築した、歴史的フェミニスト・アートにも触れている。

《突撃!千人針》では1975年4月、中ピ連が日本医学会総会に押し掛け、抗議用の旗を矢のように水平に職員に突きつけた事件を記録した写真が描かれている。「千人針」とは戦時中、日本兵士が無事に帰って来るよう、「弾丸除け」として多くの女性が布に赤い糸で模様を縫い付けたお守りのことだが、ここでは兵士は中ピ連であり、お守りを縫っているのは嶋田だ。フェミニズムの観点からの戦争分析がインターセクショナルな思考を要する事実も突きつける複雑な作品である。

中ピ連が日本医学会総会へ押し掛ける約9年前、草間彌生はニューヨークでピンクの着物を纏い《Walking Piece》(1966)というパフォーマンスを展開した。ピンクの着物を纏うという決断は米国で黄色人として人種化される移民が、差別される日本性を逆にアセットに変換するサバイバル・タクティックであった考えられる。ここでは「Accumulation」シリーズに属する1980年制作の《Untitled》、1994年にピンクに黒のドットで塗りつくされたMarshall製のミニアンプ、そして2010年作の絵画《宇宙でのかたらい》が展示され、キャリアを通して色彩、そして集積されたフォルムや水玉で覆うことによって、ものや人とその環境を一体化する手法に一貫性があることを示している。その中でも《Untitled》は触手のようなフォルムに覆われたスチール缶の中にヘアブラシやコンパクト、そしてアクセサリーが置かれ、全てがベッタリとネイル・ポリッシュでピンクに塗られたように見える。そのベタっとした表面に付着した埃や汚れが、理想化された女性性とそれを完璧に演じることの不可能性と違和感を彷彿とさせる。

このように「Pink」展は同色の豊かな多義性を体現している。展示作品に、根本的にピンクと女性性の関係性を解体する姿勢は感じないが、そもそもピンクと女性性の関係性は破壊ではなく複雑化されるべきものなのかもしれない。

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