「ブラック・イズ・ビューティフル」運動からベラスケス、『眠れる森の美女』まで──マーシャルの圧倒的な絵画世界を形づくる参照点とモチーフ
「私の絵画に描かれた人物像は、従来の意味での写実表現ではありません。それらは、写実的な空間のなかに生きる、修辞的な存在なのです。」
ケリー・ジェームズ・マーシャルは、自身の回顧展「The Histories」がロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで開催されるのを前に、美術史家ベンジャミン・ブクローとのインタビューでそう語っている。マーシャルはキャリアを通じて、文字どおり黒い肌——黒の絵具で描かれた肌をもつ黒人像——を、西洋美術史の中心的正典の系譜に位置づけ直してきた。彼の描く人物像は、黒人による自己表象が歴史的に排除されてきた結果として、美術の歴史と制度の内部に生じた視覚的かつ認識論的な空白を埋める役割を担っている。すなわちそれらは、黒人像を「見ること」と「語ること」を促す言説的機能を果たす存在として描かれているのである。マーシャルは同じインタビューの中で、「黒の絵具で黒人像を描くことは、黒人の主体性を表現することとはまったく別の問題だ」とも述べている。彼が修辞的装置としてキャンバスに描く黒い肌は、それ自体が個々のアフリカ系アメリカ人の個別的で微細な感情のあり方を直接的に表すものではない。たとえ画面を圧する大作であっても、その黒さだけで、特定の主体としての経験や感情を十分に描き切ることはできないのである。それでもなお、マーシャルの黒人像には特異な力が宿っている。美術史の空白を補うための装置として構想されながらも、その枠にとどまることなく、演劇や映画、ドキュメンタリーの登場人物のように読まれずにはいられない。そこで立ち現れるのは、固有の感情や衝動をもつ、一人ひとりの主体としての黒人の姿である。たとえば、壁画サイズのアクリル絵画《School of Beauty, School of Culture(美の学校、文化の学校)》(2012年)を挙げてみよう。
にぎわうサロンを埋め尽くしているのは、華やかで泰然とした黒人女性たちである。本作には黒人の人物が13人登場し、マーシャル自身もそのひとりとして描き込まれている。カメラのフラッシュの奥で、全身鏡に自身の姿が映り込むという仕掛けは、《アルノルフィーニ夫妻像》の描写を想起させる。そこに広がるのは、屈折したエネルギーと散漫な視線、そして宙づりにされた欲望が満ちるひと部屋の光景である。前景では、黄色のラップトップスにグレーのコーデュロイのテーパードパンツを身につけ、肌が文字どおり漆黒に塗られた女性が、カメラを構えるマーシャルに向かってポーズを取っている。彼女は、抽象的な意味での「黒さ」を体現しつつ、ひとりの人物としての個性もはっきりと示している。ヘアサロンのベージュ色の照明の下で、彼女は画面の中心に立ち、場面の「主役」としてひときわ目を引く。カメラマンとして描かれたマーシャルにもまた、はっきりとした個性が描かれている。構図の中心に黄の女性を据えるのではなく、ファインダー越しの彼の視線は右下へと滑り、背を向けて身をかがめる淡い青のブラウスにカーキのスカートを合わせた女性へと引き寄せられていく。そこから先には、いくつものナラティブの糸が立ち上がってくる。画面中央手前には、ハンス・ホルバインを思わせる歪像として引き伸ばされた、ディズニーの『眠れる森の美女』の頭部が横たわり、そのシュルレアリスム的な異形を、幼い子ども2人が無邪気に覗き込んでいる。背景では、赤と金のブロケードのジャケットを着たヘアスタイリストが、リクライニングチェアの客に施術をしながらも、気を取られたように身をひねり、前景へと手を伸ばしている。部屋の反対側では、真珠色のサンダルに金のフープピアスを身につけた別の美容師が、座る客に向き合いながらも、スタイリング台のハート形の鏡越しに静かだが強い視線をマーシャルのレンズへと差し向ける。

しかし、《School of Beauty》の黒人女性たちがどれほど生き生きと、魅力的で、泰然として映っていても、その身体はなお、どこかポーズを取らされたようで、密かに「物であること」を示唆する気配が漂っている。たとえば、画面左端近くのスタイリング台に座る女性の、硬く角ばった手のしぐさに注目してほしい。制作上の観点から見れば、その理由は明快だ。マーシャルは黒人の人物像を、生身のモデルではなく人形をもとに構築しているからである。シカゴ現代美術館館長のマデレイン・グリンステンは、ロイヤル・アカデミーでの展覧会図録に寄せたエッセイで、マーシャルが1990年代後半にバービー人形やアクションフィギュアを収集し始めたことに触れ、こう記している。「彼らに服を着せるために、マーシャルは独学で裁縫を身につけ、やがて数百点に及ぶミニチュアの衣服を作り出した」。また、「The Histories」のキュレーターのひとりであるマーク・ゴッドフリーは、《School of Beauty》の画中の人物たちが「像が一体ずつ違って見えるよう、マーシャルが自作した衣服をもとにした服」を身につけていると語っている。実際、青い柄のサンドレスを着て足首を交差させて立つ女性の原型は、マーシャルのスタジオにあった黒人のバービー人形に由来しており、図録には、そのドレスのミニチュア版を着せた人形の写真も掲載されている。ここで浮上するのは、次の問いだ。女性の対象化という観念とほとんど同義ともいえる「人形」を起点としながらも、マーシャルの絵画はいかにしてそれらを生身の存在へと描き起こし、欲望や衝動、感情の営みを備えたかのように見せているのだろうか。その答えは、人物たちの装いに注がれたこだわりにあるのかもしれない——身体を装飾する細部にまで及ぶマーシャルの丹念な注意が、それを支えている。彼女たちの手と足の爪は、朱、シーフォームグリーン、ラベンダーといった色で艶やかに塗られ、耳元の金のフープピアスも、衣装に合わせて太さや大きさが微妙に異なっている。こうして、華やかさと個のスタイルを積極的に肯定し、前面に押し出すことが、本作の主題となる。そこに、文化理論家アン・アンリン・チェンの主張——「物として扱われることを経た肉体は、自分自身を取り戻すために装飾を必要とする」——が、絵画的実践として体現されている。

個々の人物から距離を取り、作品全体を見ると、《School of Beauty》は、衣服やアクセサリーをまとった身体や、丹念に結い上げられた髪型のように、記号的要素に幾重にも折り重なっている。そこには、美術史における数々の名作からの引用——ベラスケス《ラス・メニーナス》(1656年)や、マネ《フォリー=ベルジェールのバー》(1882年)、クリス・オフィリ《Blossom(ブロッサム)》(1997年)など——が随所に織り込まれている。こうした点は、マーシャルを論じてきた批評家やキュレーターたちによって繰り返し読み解かれてきた。構図の中央には、黄色い放射状の光線を背景に黒人女性のシルエットを重ね、「It’s Your HAIR!」という句と「DARK」「Lovely」という言葉が添えられたポスターが掲げられている。それは、『眠れる森の美女』の不気味な顔に象徴される白人中心の美の規範に対抗する意図で掲げられたように見える。こうしたポスターをはじめ、サロンを彩る品々は、1960年代から70年代の「ブラック・イズ・ビューティフル」運動の美学を呼び起こし、登場人物たちの文化的背景や内面世界をさらに豊かに示している。この文脈において、運動としばしば結びつけられるヌトザケ・シャンゲの『死ぬことを考えた黒い女たちのために』(1976年)は、本作の豊かな色彩と響き合うかたちで、マーシャルの絵画に内在している。《School of Beauty》と照らし合わせて読むとき、シャンゲの著書は、ここで作動している装飾と主体性の関係にひとつの光を当てる。シャンゲが「コレオポエム(舞踏詩)」と呼んだ形式では、衣服の色で呼ばれる7人の黒人女性——たとえば「黄色い服の女性(lady in yellow)」「青い服の女性(lady in blue)」など——が、対象化や暴力の経験をモノローグとして語る。彼女たちは、公の場で卑猥な声を浴びせられ、つけ回されたこと、さらには恋人や友人から身体的・性的暴力を受けた体験を明かすと同時に、装飾が自らの身を守り、自己をかたちづくるための意識的な装いとして機能していることをも語っていく。それは、シャンゲの「黄色い服の女性」が「生きていること、女であること、そして有色人種であること(bein alive & bein a woman & bein colored)」と言い表す「形而上学的ジレンマ」に直面する彼女たちの防壁となることも示している。
とりわけ印象的なモノローグにおいて、「赤い服の女性(lady in red)」は、ある女性——おそらく彼女自身であろう——について語り始める。ラインストーンで顔をきらめかせ、腹部に「小さな虹色の羽根」をあしらい、手練れの求婚者たちを誘って「身体と魂を味わわせる」のだという。だが午前4時、装飾を洗い落とすと、その女は「ありふれた、褐色の編み込み髪の女」として現れ、求婚者たちはその姿に息をのむ。マーシャルのイメージにおいては、前者も後者に劣らず真実味を帯びている。着飾ることは、静止して物と化すことではない。それはポーズを取り、花開き、自らの自己像を形づくる行為への能動的な参与なのだ。
ケリー・ジェームズ・マーシャル「The Histories」展は、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツにおいて、9月20日〜1月18日まで開催。
文=ジェニー・ウー (翻訳=野坂賢利)
