「アイデアは芸術を生み出す機械となる」––––1967年、「コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ」のなかで当時40歳のソル・ルウィット(Sol LeWitt, 1928–2007)はそう書いた。国内ではじめて開催される大規模なルウィットの個展となる本展「オープン・ストラクチャー」で、その展示室へと鑑賞者を迎え入れる広々とした白い壁の挨拶文には、彼を象徴するこの言葉の引用がある。そこでは、「事前に設定した仕組みによって形や線、色が連続的に導き出される」ルウィットの作品は、「主観的な判断に依らない芸術のあり方を探求」したのであり、それは「作者性や永続性、唯一性といった芸術をめぐる前提への再考を促す」ものであった、と説明が続く。
その向かいの壁には、1972年の作品《Artの文字から 青色の線は四隅へ緑色の線は四辺へ、赤色の線は文字から文字へ》が配されている。題名の通り、当時の美術雑誌に掲載された批評文の中からartの文字を見つけ、それらを囲んだのちに三色のペンを用いて自らが決めた法則に沿って線を引いた、という作品である。更紙の上で交差する色褪せた三色の線は、ルウィットの実践が当時のニューヨークの特定の社会の空気の中で生まれたことを実感させ、50年という時の経過を想像させる。

© 2025 The LeWitt Estate / Artists Rights Society (ARS), New York. Courtesy Paula Cooper Gallery. Photo: Kazuo Fukunaga
この作品で、ルウィットが芸術とテクノロジーに関する批評記事を素材として用いたのは偶然ではない。その批評記事でダグラス・M・デイヴィスは「芸術におけるテクノロジーの使用に反対することは、生活そのものにおけるテクノロジーの使用に反対することを意味する。なぜならテクノロジーは、家や道路や衣服と同じくらい、人間の一部だからである」と書いた–––––ルウィットがartの文字をすくい出そうとしたのは、まさにテクノロジーが労働者や芸術家の仕事のあり方を大きく再編成していく最中にあって、期待と失望が交差する七〇年代初頭のニューヨークにおいてであった。ルウィットの「機械」という言葉の選択や、展覧会での「主観的な判断に依らない芸術」という作品説明から、今日の鑑賞者は、プロンプトを入力すればその結果が出力される生成AIのような、「脱人間化」された芸術実践を想像するかもしれない。だが、彼の作品がそうした「機械」とは一線を画するものであることは展示室を歩けば明らかである。むしろ、個別の他者である私たちが、それぞれ芸術作品を生成するために必要なプロンプトを得たなら、私たちの身体はそれをどう展開するのか–––––それを試すかのようにルウィットの作品はある。彼が生み出すさまざまな形体は、一つの平面上にある二次元的な図形として捉えることもできれば、見方を変えることで三次元的な形体として立ち上がり、あるいはその表象を形作るより大きく立体的なシステムとして広がっていく。トーマス・ドレーアの言葉を借りれば、それは「即時的読解」と「構成的読解」との緊張関係を維持しながら鑑賞者の中で展開し続ける。こうした意味で、ルウィットの作品は完結した表象世界や超越的な主体を想定することを拒みながら、この現実世界において目の前に広がり、私たちからの能動的な関与を待ち続けるのである。

構想1969年、初回展示2005年
2010年グラッドストーン(ブリュッセル)での展示
© 2025 The LeWitt Estate / Artists Rights Society (ARS), New York. Courtesy Paula Cooper Gallery.
本展の担当学芸員の楠本愛氏は、ソル・ルウィットを「偉大な巨匠」として称えるのではなく、「ある意味で不完全で欠けた部分のあるシステムやプログラムとして、開かれた裂け目や隙間があるものとして、ルウィットの作品を見直すことができないだろうか」という期待のもと本展の企画を行ったと語る(後藤美波氏による本展オープニングのレポートを参照)。この「裂け目や隙間」は、たとえばルウィットが同時代のアーティストと相互に与え合っていたより個人的な影響や、彼を超えて広がっていったさまざまな実践に想いを馳せるための本展覧会の仕掛けによって鑑賞者の前に現れる。今回本展のために制作された6点のウォール・ドローイングのうち、私たちが最初に出会う作品《ウォール・ドローイング #46 垂直線、非直線、非接触、最大密度で均一に壁全体を覆う》は、ルウィットの友人であったエヴァ・ヘス(Eva Hesse, 1936–1970)との影響関係の中で生まれ、彼女に捧げられたものであった(ヘスに宛ててルウィットが送った力強い励ましの手紙も、本展の最後の展示室に置かれた冊子で読むことができる)。あるいは、これらのウォール・ドローイングのそばのキャプションに、ルウィットの指示書をもとに東京都現代美術館で描画を行ったドラフトマンの名前が多数並んでいるのを見て、まさにこれらの線や形が2026年の東京における様々な身体の能動的関与によってはじめて展開しえたものであることを知るときにも、この「裂け目や隙間」は実感される。
こうした「見直し」の作業は、たとえばルウィットが作品を制作した時代背景を知った上で、戦争や虐殺が再び無視できない問題としてある2026年現在に芸術がどのような意味を持ちうるか、ということを考えることによって、さらに展開されうるだろう。ルウィットの作品が持つ政治的含意について展示室内ではほとんど触れられていないが、彼が初めて《ウォール・ドローイング》を制作したのがベトナム反戦運動の一環として開催されたチャリティーのグループ展であり、その「瞑想的な」作品の性質に彼が「平和」の可能性を見出していたこと、本作が政治的喧騒からの避難場であったことは重要である。それと同時に本作は、作品の非物質性や特殊な制作プロセスをもって、「明示的な言及や内容というレベルではなく、より大きな社会的かつ経済的なシステムのなかで芸術が政治的な機能を果たすこと」(ジュリア・ブライアン=ウィルソン『アートワーカーズ』223頁)を示すという形での、一つの政治的応答でもあった。
さらに言えば、ルウィットが朝鮮戦争の時期に日本で従軍した経験があることや、仕事の丁寧さからニューヨークの彼のスタジオで日本人のアーティストがアシスタント/ドラフトマンとして重宝されていたこと、彼/彼女らが時にルウィットの「Japanese Army」と形容されることについても、私たちは思いを巡らせるべきだろう。本展の最後の展示室には、アメリカやヨーロッパを代表する芸術家が東京に招致され、今日まで伝説的な展覧会として語られる1970年の「人間と物質」展で、大辻清司が撮影したルウィットの作品の展示風景の写真が飾られている。私は、1970年と2026年の日本でルウィットの作品が制作されていく姿を想像しながら、先日京都国立近代美術館で鑑賞することができた田中功起の作品《一時的なスタディ:ワークショップ#1「1946年~52年占領期と1970年人間と物質」》で、「人間と物質」展を再演するワークショップ参加者の身体を思い出していた。田中は本作で、この「人間と物質」展の巡回先の会場となった京都国立近代美術が占領期に米軍に接収されていたことを受けて、日本におけるアメリカ美術の受容と、より大きな日米関係の歴史をパラレルに描き出そうとする。幸運にも、ルウィットの作品を完結したものとして神話化することを拒む「見直し」の動きは展示室の外で確実に進んでいる。

© 2025 The LeWitt Estate / Artists Rights Society (ARS), New York. Courtesy Paula Cooper Gallery. Photo: Kazuo Fukunaga
ルウィットは生前、優れた作品を多数残しただけではなく、多くの芸術家のよき友人であり、支援者でもあったことで知られる。よりヒエラルキーがなく、より開かれた––––そのような芸術の可能性を、作品内だけでなくさまざまなレベルで信じていたのだろう、とまだどこか体温を感じられるような彼の作品群から想像する。本展は「不完全な開かれた立方体」で始まり、「不完全な開かれた立方体」で終わる。展覧会場を超えて、ルウィットのアイデアがどこまで私たちの中で生き続けるかは、私たち次第である。
文=高橋 沙也葉
「ソル・ルウィット オープン・ストラクチャー」展は、2025年12月25日~26年4月2日まで、東京都現代美術館にて開催されている。
