新作展「The Island」において、ヒト・シュタイエルは、AIスロップとデジタル個人主義への抵抗を、なおも先導し続けている。
ベルリンを拠点に活動するヒト・シュタイエルの作品は、つねにある特有の問題圏を問い続けてきた。それは、現代世界のシステムや経済の回路を循環するイメージの生と運命、そしてその渦中に置かれる人々の生と運命である。いずれの場合も、主体とそのイメージがどのように立ち現れ、あるいは消し去られるのかという問いにおいて、政治と切り離しては語れない。テクノカルチャーの危うさや歪みを問い続けてきた作家として知られ、そうした変化の推移を丹念に追ってきたシュタイエルにとって、AIの急速な台頭は悪夢が現実になったような出来事かもしれない。だからこそ、2025年に刊行された AI批判を前面に押し出した書『Medium Hot』に続き、シュタイエルは新作展「The Island」でも、その抵抗の姿勢を継続している。
広く注目を集めた《Lovely Andrea》(2007年)以降、シュタイエルはコラージュ的なビデオエッセイのスタイルを発展させてきた。辛辣でありながら遊び心にも富むその手法は、批評的な解説やドキュメンタリーの断片、不条理なCGIやエフェクトによる風刺を織り交ぜながら、社会、資本主義、テクノロジーをめぐる眩暈的な省察を展開する。本作でシュタイエルは、生成AIによって安易に量産される「AIスロップ(低品質なAI生成コンテンツ)」的な映像制作技術をあえて逆手に取り批判する。その一方で、ディープフェイク化され、アルゴリズム的かつイデオロギー的に駆動されるオンラインコンテンツが遍在する状況のなかで、政治的・文化的にも成立しうる代替の可能性も模索している。
新作展「The Island」の会場となるプラダ財団のペントハウスギャラリーでは、その暗転した内部に映像作品とビデオスカルプチャーが設置されている。床面には映画『トロン』を思わせる青い発光ラインが走り、来場者を誘導する。本展は、同名の荒唐無稽な映像作品《The Island》を中心に展開している。そこには、1980年代の映画から抜け出してきたかのような『フラッシュ・ゴードン』のアバターがコミカルな主人公として現れ(ドイツ人俳優マルク・ヴァシュケが愛嬌たっぷりに演じている)、絵はがきのように美しいクロアチアの島町コルチュラの街路を舞台に、「世界を救う」べく奔走する。コルチュラという場所の選択には、クロアチア出身のSF史家ダルコ・スーヴィンの存在が関わっているだけでなく、沖合で発見された、新石器時代にさかのぼる人為的な人工島遺構の物語にも結びついている。第二次世界大戦期の幼少時代について語るスーヴィンの回想は、AIで生成された映像やフラッシュ・ゴードンの冒険場面のあいだに織り込まれていく。こうした要素が重なり合うことで、この場所にはさらに複層的な意味が付与されている。
フラッシュがコルチュラを舞台に駆け回るなかで、シュタイエルは考古学、量子物理学、サイエンスフィクションという一見つながりのない主題を、スーヴィンの語りや量子物理学者トンマーゾ・カラルコの言葉、さらにはクロアチアのアカペラグループKlapa Ivo Lozicaの超越的な歌声を手がかりに、大胆な連想の跳躍によって結びつけていく。こうして、過去と未来、別様の現実と歴史の反復が織り重ねられる。年老いたスーヴィンは、ヨーロッパを席巻したファシズムの拡大を指す「ブラウン・タイド」を思い返し、そのイメージは、AIによって変容したコルチュラを呑み込む「巨大な排泄物の津波」として視覚的に再演される。ここで、フラッシュはAIが生み出した邪悪な分身と戦い、さらにはコルチュラと失われた先史時代の対の島との歴史的な二重性も浮かび上がる。

撮影:Andrea Rossetti、画像提供:プラダ財団

撮影:Andrea Rossetti、画像提供:プラダ財団
展示空間の別の一角では、量子物理学という主題が、ローテクにもハイテクにも見える彫刻作品として再び現れる。ギャラリー内では、発光する巨大な二つの凹型の投影球体が来場者を迎え、その内部にはコルチュラと水中の考古学遺跡をめぐるシミュレーション映像が繰り返し映し出される。そこに現れるのは、きらめく量子粒子を思わせるCGIの人工的な生成像である。《The Island》の投影スクリーンの奥には、金属と流木で組まれた2mを超える骨組み構造が現れ、終末後の世界の天文観測器を思わせる。半透明の半球状ドームが固定されたその構造体の内部では、コルチュラと水中遺跡の像が明滅しながら渦を巻く。また円環状に配置されたビデオスクリーンでは、作品に登場する語り手たちへのインタビューの長尺版が上映され、映像内で断片的に提示される発言がここで拡張され、より広い文脈のなかへと位置づけ直されている。
目まぐるしく展開する編集やパロディめいた表現様式にもかかわらず、シュタイエルの映像作品の底流にあるのは、「AIスロップ」に覆われた現代文化が内部崩壊へと向かいかねないという陰鬱な直感である。「批評的」アーティストとしての自身の立場を自覚的にほのめかす身振りとも読めるシークエンスとして、本作にはフラッシュが「自らのAIコピーと戦うため、スロップ世界へと突入する」場面が挿入される。字幕によれば、それはAI生成によるもので、フラッシュはコルチュラの街路を背景に、自身のドッペルゲンガーとライトセーバーを交えて対峙する。周囲では群衆が混乱に陥り、コミック調の字幕は、フラッシュが「スロップをさらなるスロップによって打ち負かすことはできない」と悟るに至ったことを苦々しい調子で告げる。さらに、ワニの頭をもつ爆撃犯「Bombardino Crocodilo」を描いた毒々しいAI生成クリップが続く。これは最近流行した「Italian Brain Rot」──AI生成による皮肉と反動が奇妙に混交したバイラル・ミーム現象──から派生したキャラクターであり、こうした断片を見続けていると、思わずその結論に同意してしまいそうになる。


画像提供:作家、プラダ財団、Andrew Kreps Gallery(ニューヨーク)、Esther Schipper(ベルリン/パリ/ソウル)
この混迷した状況からいかに抜け出すかという問いを、シュタイエルは《The Island》を構成する考古学と物理学という2つの要素に託しているように見える。ここでこれらの分野は、AIのイメージ・マシンが生み出す非現実性に対して、かろうじて残された現実感を支える拠りどころとして機能している。というのも、そのイメージ・マシンは今や、社会の解体と文化的錯乱の双方を加速させている可能性があるからだ。そして科学はいまなお、推測・実験・検証という原理に根差している。
ある意味で《The Island》は、イメージと物質性のもつれをめぐるシュタイエルのこれまでの考察の緊張度をさらに高め、その問題の切迫性を押し上げている。本作は、危機的な状況のなかで、デジタル・イメージが構成する世界そのものが際限なく空洞化していくことへの、もはや耐え難い感覚を示唆している。そしてもしここに左派的な唯物論に根差した政治がなお生き残っているとすれば、それは、人間の現実の「真実」──すなわちそれが物質的条件に根差しているという事実──を、あらためて主張し直そうとする欲望のうちに立ち現れている。

画像提供:作家、プラダ財団、Andrew Kreps Gallery(ニューヨーク)、Esther Schipper(ベルリン / パリ / ソウル)
しかし本作が示すのは、それだけではない。《The Island》は、「AIスロップ」とは対照的に、人間の手による芸術としても現れる。そしてその結末は、どこか奇妙に保守的にも映る。だが、もしそれが「保守的」だとすれば、それは保存するに値するものを守ろうとするという意味においてである。作品は、コルチュラの岸壁に立つKlapa Ivo Lozicaの6人が、夕暮れどきに海への賛歌を歌い上げる印象的な合唱のフィナーレで締めくくられる。歌詞には民俗的な伝統感覚と土地への根づきの神話が深く刻まれている。これまで、テクノ系ミュージックビデオやケーブルニュースのチャンネル・アイデント、オンラインゲームといった視覚語彙を用いてきたシュタイエルにとって、これは大きな転回である。感覚的な次元では、密に重なり合うハーモニーが空間を震わせるように響きわたり、私たちを──依然としてテクノロジーに媒介されてはいるものの──人間の声と身体の物理的現前へ、そしてそれらのあいだに結ばれる物質的な関係へと引き戻す。
《The Island》を、シュタイエルの「ある種の原点回帰」の瞬間として捉えるのは、どこか意外にも思える。しかし文化が、模倣的なAIの生成物や孤立し猜疑的な個人が生み出す妄想めいた独我論的ニヒリズムへとさらに傾斜していくなかで、「場所と人々」という物質的現実に固執し続けるシュタイエルの姿勢は、彼女が長らく体現してきた批評的アートの一つの時代の限界を示すと同時に、芸術を情動と肯定の経験として捉え直す方向への転回としても立ち現れている。AIスロップの潮流に抗して、この作品は、美的経験と制作の力、そして人間の行為主体性へと再び足場を探り直そうとしている。そこには、不確かながらも、どこか肯定的な回帰の気配が感じ取られる。
(翻訳=野坂賢利)
「The Island」展は、プラダ財団(ミラノ・オッセルヴァトーリオ)において、2026年10月30日まで開催されている。
