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大西茂|超無限の探究

《題不詳》1950年代 ©Estate of Shigeru Onishi, courtesy of MEM

大西茂は、その経歴や思考を含めて、謎の多い作家である。大西が活動した時期の、アンフォルメル関係の文献などのいくつかの批評的なテクストでは、彼の名が散見される。が、瀧口修造らわずかな例外をのぞく日本の批評家たちに本格的に関心がもたれた形跡はなく、その記述は断片的なものにとどまる。本展は、知られざる存在だった大西の、日本では初となる回顧展である。

大西は、数学を通じて世界の構造を把握するという目論見のもと、数学的思考を基盤とした哲学的探究を行いながら、そこに限界を感じ、写真や絵画を媒体とした作品制作に向かった。よって、大西に、芸術家としてのアイデンティティがあったかどうかは疑わしい。必然的にその作品も、同時代の芸術的潮流に積極的に関与しようとするものではない。彼にとって、芸術とは哲学と同様の世界構造の探究、知的営為としてあったからである。大西の芸術制作は、社会的な属性をもつ「仕事」である以前に、数学者が未解決の難問に挑むのと同様の、人生を賭した挑戦であったはずである。

《題不詳》1950年代 ©Estate of Shigeru Onishi, courtesy of MEM

本展ではとくに、フランスを中心としたアンフォルメル運動を先導した批評家ミシェル・タピエが大西を高く評価し、彼と継続的な関係をもった点が強調された。タピエもまた、数学と芸術の並行関係を重視していたという点で、大西と同じ知的関心を共有していたといえる。

その上で注目したいのが、大西の芸術制作の目的が、「別の世界」を展開することにあったということだ。大西が生前に複数出版した私家版の書物『超無限の研究』の前書きで、彼は以下のように書く。

 一般には、止揚と云う言葉は、二つの矛盾する概念が、調和統一され、そのことによって、より高い一つの概念が生み出される、と云う意味に使われているが、ここでは、止揚と云うことは、対立が調和され、別の世界が展開するのであって、確定した一つの概念が生み出されることではない。
 この別の世界とは、原始直観の世界である。即ち、ここで止揚とは、対立が調和され、原始直観へ帰ることである。(下線引用者)

大西の作品は、この「別の世界」を開くものとしてあった。大西によればそれは「超無限」が実現された世界である。「超無限」が具体的に何を指すのかは謎だが、それは、時間、空間、意味などによって世界が分節化される以前の、それらが未分化なまま無限に(多次元に)折り畳まれた様態のことだったとも理解できるかもしれない。タピエもまた、1952年に出版した、タピエの宣言書とアンフォルメルの画集を兼ねた書物に『別の芸術(Un Art Autre)』というタイトルを与えている。大西とタピエはともに、「別の」世界、芸術を開示することに向かったのである。大西にとって、「別の芸術」とはどのようなものだったのか。

そのために彼は写真というメディアを取り上げ、そこにありとあらゆる実験的技法(ソラリゼーション、多重露光、画像の左右反転、さらには煮沸した現像液を絵の具のように印画紙に広げること)を投入した。彼の写真は、レンズを通した「撮影」と、レンズを通さない「現象」を並置する。その結果、具体的かつ可視的な映像と物質的な現象そのものが一つの画面のなかで干渉する。観者の前で、二つの事象が劇的に遭遇し、その対立は溶解する。

《ポプラ》1957年頃 ©Estate of Shigeru Onishi, courtesy of MEM

たとえば《ポプラ》(1957年頃)という写真では、分岐するポプラの枝先の形態とランダムに枝分かれする現像液の飛沫が視覚的に識別不可能なまま結びついている。それは、フォルムがアンフォルムによって侵食され、たがいの差異が蒸発することだ。彼のいう「別の世界」とは、イメージと物質、具体物と現象とが交錯することで現れる、このような次元の生成と関わる。   

タピエは、1951年と52年に「シニフィアン・ド・ランフォルメル」展を企画し、そこでソシュールの言語学の「シニフィエ」と「シニフィアン」の対立構造を導入した。タピエは、ある座談会のなかで、自分にとって重要だったのは、「アンフォルメル」という概念以上に「シニフィアン」のほうであったと述べている(『みづえ』1957年10月号「座談会 ミシェル・タピエ氏をかこんで」)。

同様に、大西の作品では、フォルムがアンフォルムに、記号がより純粋な記号に侵食されることで、画面は無数のシニフィアンで覆われる。被写体(女、木、建物)などのシニフィエ(意味内容)は、化学反応や現像液という物質的な指標(シニフィアン)で覆い尽くされ、解体されるからである。それは、指標、徴候(シニフィアン)が全面化された世界である。その意味で大西の作品は、狂気に接近する。狂気とは、世界の図と地、秩序・順序(オーダー)などが錯乱的に配置され、あらゆる物事の弁別が失効し、すべてがしるし=徴候(シニフィアン)として殺到する世界に身を浸すことだ。

《題不詳》1950年代 ©Estate of Shigeru Onishi, courtesy of MEM

それは、既存の時間と空間の秩序や順序が崩壊し、その整合的な配置が失調することである。現像液を水墨画の墨のように操作する大西の液体的な写真は、こうして時間と空間という形式を、不定形な、形をもたない連続的で流動的なものへと変質させてしまう。そこで時間と空間の輪郭は、分節化される以前の世界へと遡行するように、流動的な物質として解体される。

大西が、数学においてとくに強い関心をもったのが位相数学(トポロジー)である。同様に、タピエもまた、「別の芸術」としてのアンフォルメルを論じる際、トポロジーや集合論を援用していた。

実際、大西の作品において、トポロジーは、比喩以上の具体性をもつ制作プロセスの基盤である。大西の作品では、対立する諸項は、連続的に変形可能(変換可能)なものとして捉えられているからだ。そのことによって彼は、数学的な写像や位相の概念を把握しようとしたのだといえる。

たとえばトポロジーでは、コーヒーカップとドーナツは、位相幾何学的にはひとつの穴をもつという共通の性質をもつという点で同相(homeomorphic)であると説明される。先に言及した《ポプラ》は、そのような事象の連続的変形、すなわちたがいに異質な次元にあるものが位相として同相であることを捉える。そこで現実の世界を支配しているさまざまな対立項、たとえば時間や空間の前後関係、右と左、表と裏、内と外などの空間的な位相の差異は連続的な変形によって容易に逆転され、不定形な物質として溶解する。

《ほころびた視覚》1957年頃 ©Estate of Shigeru Onishi, courtesy of MEM

それは、大西が繰り返し述べた「同時性」の発現という問題とも重なり合うはずだ。時間と空間の統整的な秩序が崩壊すれば、過去と現在の区別も、イメージと非イメージとの区別もなく、すべてが「同時に」出現するだろうからである。大西の企図は、こうして、時間と空間が多次元(超無限)的に折り畳まれた非線形の非ユークリッド的な世界に到達することにあったと思われる。多次元空間や非ユークリッドの世界は、アインシュタインとキュビスム以降の20世紀の歴史において、数学と芸術の並行性が顕著に現れた知的領域である。

彼の仕事が、統整的な秩序を破壊し、シニフィアンが全面化する点にあったのだとして、大西の作品はそれをある程度まで実現するものであることはまちがいない。が、タピエが先導したアンフォルメル運動と同様の行き詰まりを、大西の作品もまた抱えているといえるかもしれない。大西の作品はたしかに現実の秩序を破壊するものだが、同時にそこから「別の世界」としての新たな構造を立ち上げることの困難を感じるからである。彼の目論見は、人間を恣意的に閉じ込める時間と空間の閉域を爆破し脱構成することにとどまらず、そこから「原始直観」を開く「別の世界」を立ち上げることにあった。その限界を悟ったとき、彼は作品制作から手を引いたのだとも感じる。  

2階展示室 ©Hayato Wakabayashi

しかしそのことは、彼の哲学、数学、芸術における実践が、社会的要請にしたがった外的要因によるものではなく、隠された世界構造を探究する切実なものであったことを逆説的に証明するだろう。それが示すのは、かつて芸術が真理の探究であった時代が、たしかに存在したということである。


大西茂 写真と絵画|東京ステーションギャラリー|2026年1月31日〜3月29日


沢山遼:美術批評家。著書に『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020)。共著に『現代アート10講』(田中正之編著、武蔵野美術大学出版局、2017)などがある。

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