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ホイットニー・ビエンナーレ2026|
革命が「かわいい」になるとき

Gabriela Ruiz, Homo Machina, 2026, installation view at Whitney Biennial 2026. Photo: Jason Lowrie/BFA.com. © BFA 2026

暗雲立ち込める時代、ニューヨークのホイットニー美術館の主要展であるビエンナーレは今回、「かわいい(cute)」「滑稽で過剰な(zany)」「興味深い(interesting」へと舵を切る。この転換は現実逃避か、それとも現在にふさわしい応答なのか?

2012年、文化理論家のシアンヌ・ナイは、「美」や「崇高」といった概念が、「かわいい」「滑稽で過剰な」「興味深い」という新たな美的カテゴリーに取って代わられたと論じた。これらは、後期資本主義の主体としての私たちが、視覚文化をどのように経験し、評価しているかを反映するものだ。タイトルを与えられず、あえて明確なテーマを掲げない今年のホイットニー・ビエンナーレに並ぶ作品群は、18世紀的な美的枠組みや、「社会的」「政治的」といった分類よりも、これらの新しい視点のもとでこそ、より的確に捉えられる。「かわいい」とは一般に、小さく、身近で、どこか脆弱なものに向けられる感覚だが、それは守りたいという感情をかき立てる一方で、敵意や嫌悪など、相反する反応をも引き起こす。この意味で、本展の多くは「かわいい」ものの領域に属している。来場者が最初に目にするのは、エミリー・ルイーズ・ゴシオーの《Kong Play》(2025年)だ。低い二層の台座には、コングという犬用おもちゃをもとに造形された、鮮やかな色彩の雪だるま型の小さな陶作品が100点ほど並ぶ。これらは、作家の盲導犬に捧げられている(ゴシオーは2012年、自転車事故で視力を失った)。本作と共に展示されている、ボールペンやクレヨンで描かれた一連のドローイングには、それぞれに異なるタイトルがつけられており、そこにはおどけた様子で、ときには二足歩行もする白い犬と作家が遊ぶ様子が描かれている。展覧会はこうして、華々しい演出も目立った摩擦もなく、やわらかな調子で幕を開ける。

そして「かわいい」は続く。エリン・ジェーン・ネルソンは、不揃いながら趣のある陶製フレームをグリッド状に並べ、そこに北ニューメキシコの砂漠を捉えた写真を配している。それらは木陰からの眺め(《Orchard》、2025年)や、草むらの中から野花を見上げる視点(《Garden》、2025年)など、壮大な風景表象とは距離を置いた写真だ。CFGNYによる建設現場のようなインスタレーション《Continuous Fractures Generating New Yields》(2025年)では、イモムシのぬいぐるみが、角材や半透明のプラスチック材、鏡、磁器などで構成された迷路の中をくねりながら進み、仮設的な構造の足元にある開口部から控えめに顔をのぞかせる。タイナ・H・クルスのテンペラによる壁画《A Wall That Plays Along》(2026年)には、シェル・シルヴァスタインの漫画風のイラストを思わせるタッチで、不機嫌そうな、少女の姿をしたトロールが描かれている。また会場には、まるで保育室のような展示室もある。アンドレア・フレイザーによるワックス素材で作られた等身大の幼児像《Untitled (Object I–V)》(2024年)は、フレイザーの母であるカルメン・デ・モンテフロレスによる、絡み合う人物像を描いた変形キャンバス作品——《Four Women》(1969年)、《Man and Woman Sitting》(1968年)——に見守られるように配されている。さらに、その近くに展示されたヌール・モバラクによる果実のような色彩の樹脂製パネル作品(《Recto Verso》シリーズ、2024–25年)は、オズワルド・マシアによる匂いの作品《Requiem for the Insects》(2026年)から漂う甘ったるい香りに包まれるなかで、まるで硬いキャンディのようにも見えてくる。キュレーターがステートメントで「重要な過渡期」といささか曖昧に表現している現在のアメリカ社会の状況(すなわち権威主義の台頭)に照らせば、作品に見られるこうした甘さの要素は、コロナ禍に流行した「ドーパミン・ドレッシング」——あえて過剰でとっぴな遊び心にあふれた服を身につけることで自分を癒すこと——を思い起こさせる。そうした意味で本ビエンナーレは、アメリカの文化や政治の行方に無関係ではいられない人々の感情の揺らぎや不調に、きわめて敏感に呼応しているように見える。

Nour Mobarak, Recto Verso 1.1 (Coral Green), 2024-25, epoxy resin and liquid pigment, 91 × 76 × 4 cm. Photo: Stephen Faught. © and courtesy the artist. Courtesy Miguel Abreu Gallery, New York
Andrea Fraser, Untitled (Object) IV, 2024, Microcrystalline wax, aluminum and steel armatures, 15 × 90 × 40 cm. Photo: Rebecca Fanuele. © and courtesy the artist. Courtesy Marian Goodman Gallery and Nagel Draxler Gallery

ガブリエラ・ルイスの《Homo Machina》(2026年)は、派手なライムグリーンのファイバーグラス製レリーフで、ベビー用おもちゃを想起させる形をしている。その不気味な銀色の顔には、叫ぶように開いた口があり、その下では胎児を思わせる形態が回転している。これは「かわいい」というよりもむしろ、滑稽で過剰なものに見える。本作は、シアンヌ・ナイが後期資本主義における狂騒的な心理のありようとして述べるものを体現しており、「鑑賞者に、距離を取りたいという欲望を即座に喚起する」。同様の過剰さを帯びているのが、クーパー・ジャコビーによる《Mutual Life》(2026年)と題された時計の作品である。磨き上げられたステンレス製の凸面鏡の表面に動物の歯が取り付けられ、それが長針と短針さながらに回転する。kekahi wahiによるワークアウトのチュートリアル映像《20-minute workout [WIP]》(2023年)も、同じ感覚を共有する。スタンプでびっしり覆われた画面の中で、映像はせわしなく展開し、存在感のある大きなスクリーンに投影されている。パット・オレスコによる《Blowhard》(1995年)は、道化師の頭部をかたどったナイロン製の巨大バルーン作品で、その隣には、イザベル・フランシス・マクガイアによる樹脂と粘土で作られた人物像が置かれている。壁の解説文によれば、マクガイアの人物像は17世紀のセイラム魔女裁判に着想を得たものだという(一人の胸はえぐり取られたように見えるが、血の表現はあくまで演劇的だ)。さらに、プレシャス・オコヨモンの吊り下げられたぬいぐるみ作品は、1930〜40年代に作られた、青い目のブラックフェイス人形(黒人を戯画化した人形)のプラスチック製頭部に、茶色い足をもつヴィンテージのピンクのウサギのぬいぐるみの体を組み合わせたものだ。この不可解なハイブリッドは、中国語圏で山寨(シャンツァイ)と呼ばれる模造品のように、ちぐはぐなシグナルを放っている。アイデンティティも機能も定まらないそのありようは、見る者に不安を抱かせ、この作品を「滑稽で過剰なもの」の領域に確かに位置づけている。

Precious Okoyomon, You have got to sometimes become the medicine you want to take, 2025, artist-made children’s toys with taxidermied bird wings, rope, and motor, dimensions variable. Photo: Markus Tretter. © and courtesy the artist. Courtesy Kunsthaus Bregenz
kekahi wahi (Sancia Miala Shiba Nash and Drew K. Broderick) and Bradley Capello, 20-minute workout (WIP) (still), 2023, digital video, sound, colour, 23 min. © and courtesy the artists

これに対して「興味深い」ものは、穏やかで理性的、かつ抑制された好奇心を喚起する。本ビエンナーレにおいて「興味深い」作品は、都市インフラの視覚言語——冷たい表面、簡素で厳格なフォント——や官僚的秩序を前景化する。ソン・テウによる《System’s Void》(2026年)は、ホイットニー美術館の中央階段部分に設置され、アメリカの水圧破砕(フラッキング)用の井戸で発せられる警告音をもとにしたサウンドスケープと、化学物質の分類に用いられる数値コードの映像投影を組み合わせている。エミリオ・マルティネス・ポッペのインスタレーション《Civic Views》(2025年)では、金属製の足場構造に、これといった特徴のない風景を捉えた大判写真が取り付けられている。展示資料によれば、それらはペンシルベニア州フィラデルフィアの4つの行政部局に勤める公務員たちが、オフィスの窓から日々眺めている景色だという。同じ展示室では、デイヴィッド・L・ジョンソンの《Rule》(2024年〜)も観られる。ニューヨークの開発業者が設ける、私有地でありながら公共に開かれた空間には、利用規則を記した金属製の看板が掲げられているが、ジョンソンはそれらを取り外し、一列に並べて展示した。これらの洞察に富んだコンセプチュアルな作品たちは、「かわいい」作品や「滑稽で過剰な」作品群が放つけばけばしさと、絶えず更新されるニュースや投稿が煽る、中毒的な現在志向の双方に対して、均衡をもたらしている。

Ignacio Gatica, Sanhattan, 2025 (still), digital video, colour and sound, 18 min 57 sec. Courtesy the artist

本展でとりわけ際立っているのは、二つの作品である。ひとつは池添彰による絵画群だ。蛙やモグラ、ロボットが、それぞれ原子力発電所、牧草地、太陽光発電所における循環的な労働の反復に閉じ込められている様子を描いたこれらの絵画は、ユーモラスでありながら、同時にどこか気を滅入らせる。そこに描かれた場面は、ヒエロニムス・ボス風の子ども向け絵本の一ページのように、「かわいい」「滑稽で過剰な」「興味深い」の三つの性質を併せ持っている。もうひとつは、イグナシオ・ガティカの映像インスタレーション《Sanhattan》(2025年)である。本作は、その三つの傾向を統合しながら、私たちを「模造品」という概念へと引き戻す。中心となるドキュメンタリー調の映像は、チリ・サンティアゴの金融街を映し出しており、この地区は、クライスラービルやシーグラムビルといったマンハッタンのランドマークを模した建物が多いことから「サンハッタン」と呼ばれている。ナレーションでは、マンハッタンはジキル博士に、サンハッタンはハイド氏に例えられ、サンハッタンはマンハッタンの「より小さな(よりかわいい)スケール」での「模倣」であるとされる。しかしここで、両者のヒエラルキーは不安定なままだ。「どちらが先で、どちらが後なのか」と、映像は問いかける。あるシーンでは、震える手がサンティアゴの高層ビルのモノクロ写真を持ち、モデルとなったニューヨークのビルに重ね合わせる。その身振りはあまりに控えめで、ひとつの意味に回収しがたく、単なる抗議や修正主義的な行為として読み解こうとする試みをすり抜けてしまう。

2024年のホイットニー・ビエンナーレが、現代および歴史的な不正義の是正を明確に志向していたのと比べると、今回のビエンナーレにおける政治的主張は、不思議なほど私的な範囲にとどまっている。まるで現実からわずかに角度をずらしたような、「かわいく、滑稽で過剰な、興味深い」世界を見ているかのようだ。美術に生存や尊厳といった問題、つまり生きることの根幹に関わる明確な指針を求める者にとっては、本展は受動的で政治性の希薄な展示として記憶されるだろう。しかし、おそらくそれこそがこの展示の要点なのだ。生にとっての芸術は、マンハッタンにとってのサンハッタンのようなもの——すなわち模造品なのだ。だとすれば、その模造品としての性質こそが、美術にどこか安っぽくも抗いがたい魅力を与えているのである。

(翻訳=Art Translators Collective)


ホイットニー・ビエンナーレ2026は、2026年3月8日〜8月23日、ホイットニー美術館(ニューヨーク)にて開催。

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