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ヤイル・オールバウム「Asherah」展──違和感と死の礼拝

Yair Oelbaum, Untitled, 2024 C-Print from trimmed sheet film

小津安二郎監督の《お早う》(1959)の最後から二番目のシーンで、お互いを好いている若い英翻訳者の福井平一郎(佐田啓二)と会社員である有田節子(久我美子)の間に、南武線八丁畷駅のホームでこんな会話が繰り広げられる。

福井:あぁ、あの雲面白い形ですね。

有田:あぁ本当、面白い形。

福井:何かに似ているな。

有田:そう、何かに似ているわ。

二人は自分たちの気持ちを表現することを避けるため、天気や雲に話を逸らしているのだ。雲が「何かに似ている」と思う心理現象には、「パレイドリア」という名前があり、月の模様をウサギとして捉えるのも同じ現象である。抽象絵画の前でも同様なことを言いたがる人がいる。可愛らしいと解釈されがちなシーンだが、この表現不可能なものを言語化するという動きは、トラウマになりかねない、精神分析家ジャック・ラカンの言う「現実界」を弾き出し、言語や社会のルールが憚る「象徴界」を守ろうとする、強烈な否認を表しているとも言える。

米国ニューヨーク州を拠点とするヤイル・オールバウムの写真は歯科医であった父親から受け継いだマクロ撮影専用のポラロイドカメラで撮影されている。撮影対象は作家曰く「自然界や人工の世界に存在する小さな欠片や塵」である。写真は歴史的に証拠として扱われることが多かった為、警察制度や医療制度との関係が強く、上記のラカンの言葉を借りれば、象徴界を支持する重要な技術であった。そしてその役割を可能にするのは写真の指標性である。指標的記号では記号とその指すものが物理的につながっているので、写真に写っている物は過去にレンズの前に存在した証拠になる。なので、今でも広告には信憑性を高めるために写真が使用されることが多い。ロラン・バルトは写真がまるで記号化されていないように観られる現象を指し、写真がコードのないイメージのように働くと論じた。

オールバウムの写真の対象が何であるのかを読み取るのは難しい。決して自然には入ってこない、という意味でコードだらけである。極端に小さい自然や人工のものがアレンジされた、ある種のセットアップ写真であるには間違いないが、抽象性が高く、作品によっては絵画的に見える構図もある。ただ、その中には虫の頭や、ケーブル、皮膚、塵、花なども映り込んでいるので、観者は抽象と具象の読み取り作業に宙吊りにされる。何が写っているのか定かでないのが、気持ち悪い。

Yair Oelbaum, Untitled, 2024 Digital C-Print from Polaroid Scan

擬音語で表すとグチュグチュしている。いま私は鳥肌を立てながらこの文章を書いている。私には母から譲り受けた「トライポフォビア」という、小さな穴や斑点などの集合体に対する恐怖症があるのだが、数年前ロバート・ゴーバーの作品を介して私の場合は穴だけではなく、隙間や割れ目など、奥の世界があるにも関わらず、その内容が見えない、目や指が届かない、という状況が恐怖の根源であると知った。さらに言うと、最近の研究ではトライポフォビアは自然界の毒性を持ったものから自己を守るテクニックであるという仮説もあると知った。

オールバウムの写真には毒があり、私のフォビアは私を写真から守ろうとしてくれている。その毒は、一つには汚穢であり、汚穢とは人類学者メリー・ダグラスが論じた通り、石鹸についた体毛やディナー・プレートの上で揉み消されたタバコの吸い殻のように本来あるべき場から外れたものである。虫の羽の破片も枯れた植物もフケも本質的に汚くはないが、場違いである故に私に不快感を与える。

Yair Oelbaum, Untitled, 2025 Digital C-Print

「本来あるべき場から外す」行為はシュールリアリズムが得意とした技法であった。例えばマン・レイはメトロノームに目の写真を貼り付け、メレット・オッペンハイムはティーカップとソーサーとスプーンを毛皮で覆った。本来一緒にあるはずでは無いもの並べることによって違和感を感じさせるのもまたシュールリアリズムが得意とした技法だ。ほぼ誰もがメレット・オッペンハイムの《毛皮のティーカップ》(1936年)を気持ち悪く思うのは驚くべき功績だろう。オールバウムの写真は普段我々が目を逸らす埃、虫、カビなどに焦点を当て、美術作品として昇華する。目を逸らしたいと思う同時に、もっと知りたくさせる。なんだかわからないものをわかりえるように情報を探す眼は、言葉にできない感情を言語化しようとしている私にも似ている。

オールバウムの写真を前にした時、誰もが同じように感じるのかは私にはわからない。バルトによれば、観者を刺す写真の中にあるものは極めて個人的に決まる。私にとっては、マクロレンズ特有の被写界深度の浅さも、ポラロイド特有のキメのなさも、はっきりと見えるが特定しづらい物体と、場というコンテクストを読ませないボヤけた前景と背景を合わせ、見事に欲求と不満を同時に起こし、さらに恐怖感を煽る。オールバウムは「写真で残すことは… 私にとって礼拝の一つの形です」と言い、彼が育てられた厳格なユダヤ教の偶像崇拝の禁止への反動だと示唆する。

偶像崇拝は具象できる筈のない神という存在に形を与えることが間違いだと考えるから禁止された。オールバウムの写真も具象できない現象を捉えようとしているが、それは「神」ではなく(オールバウムは育ての家族の宗教は信じなかったと説明している)、「死」であろう。言語化できないものが「現実界」に属し、トラウマを起こすものであるとラカンは論じ、バルトも写真において、言語化できないものだけが、観者を刺すと書いた。

オールバウムの写真において、私を刺すものは、私の恐怖症に繋がっている。だからこそ、初めて観た夜からそれらの作品が頭を、というか毛の立ちっぱなしのうなじを、離れない。そしてバルトが肖像写真について論じた通り、写真の中で私たちを最も鋭く刺すのも死である。オールバウムの写真には虫の死骸がカビに覆われたようなイメージや色彩においても枯れや腐食を示唆するものが多く、作家本人も常に死について考えており、自分自身ゴミや土と変わらないと考えていると説明している。

死は現実界の基盤であり、象徴界から排除される対象なので、死を直視させるイメージは観者に違和感や不気味さを与える。死を想わせることがメメント・モリの役割であり、そこには死を意識することによって、生を、そして今を大切にさせる意図がある。だがオールバウムの写真からは少し違うメッセージが読み取れる。自然界には道徳も倫理もなく、言語を通して「現実界」から隔離されることもないので、そこでは死は極めてフラットに、生の終わりではなく、生から死、死から再生といったサイクルの一点として存在するのではないだろうか。


ヤイル・オールバウム 「Asherah」展は2026年7月1日(水)から7月11日(土)までスタジオ35分で開催。


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