イメージは誰のものなのか。二人のアーティストの実践が交差するこの展覧会は、アプロプリエーションとそれをめぐる諸問題を前景化する。
夜の道路脇で、カメトラ・バーバーが両手を上げ、後ろ向きに歩いている。その姿が、パトカーのドライブレコーダーへと近づいてくるにつれ、動揺した声が聞こえてくる。「何なんですか?……子どもたちはまだ6歳と8歳なんですよ」彼女が必死にそう叫ぶなか、幼い男の子が停車中の彼女の車から降り、同じように両手を上げて、おずおずと警官たちの方へ歩いていく。バーバーは、テキサス州フォーニーの警察が捜索していた人物と誤認され、逮捕された。この騒動が起きたのは2014年のことだが、その映像は、アーティストのアーサー・ジャファによるシングルチャンネル・ビデオ作品《Love is the Message, The Message is Death》(2016年)に使用されたことで、今なお見続けられている。8分間のモンタージュである本作は、ニューヨークのギャヴィン・ブラウンズ・エンタープライズで初めて上映された。そこに映し出されるのは、バーバーの逮捕だけではない。2015年、テキサス州マッキニーで当時15歳だったダジェリア・ベクトンが、プールパーティーの最中に白人男性警官に地面へ押さえつけられた場面をはじめ、何十人もの黒人に対して警察が振るった暴力を捉えた映像も含まれている。それらは、踊るマイケル・ジャクソン、ダンクシュートを決めるレブロン・ジェームズ、パンチをかわすモハメド・アリらの映像とともに編成され、カニエ・ウェストによるヒップホップ・ゴスペル曲「Ultralight Beam」(2016年)に乗って映し出される。何年も経った今でも、ベクトンへの暴行を記録した映像は、インターネット上に残り続けている。同時に、《Love is the Message…》の一部となったその映像は、ギャラリーでの初公開後に同作を収蔵したスミソニアン/ハーシュホーン美術館、ハイ美術館、メトロポリタン美術館などのコレクションのなかにも収められている。
ジャファのビデオ、彫刻、インスタレーション作品は、世界各地で展示されてきた。それらは恐ろしくもあり、見る者を励ましもする。そして、紛れもなく心を揺さぶる。彼の制作方法は、まるでモノを集めるカササギのようだ。ウェブ上からイメージや動画を見つけては、大容量のMacに保存する。どうやらそのパソコンを耐衝撃性のスーツケースに入れて、旅先にも持ち歩いているらしい。そのアーカイブには、凄惨な記録も含まれている。たとえば、1920年に集団リンチにより殺害されたイライアス・クレイトン、エルマー・ジャクソン、アイザック・マギーの写真。ジャファはこれを拡大し、デンマークのルイジアナ近代美術館で壁紙として展示した。また、映画『タクシードライバー』(1976年)でロバート・デ・ニーロ演じる主人公が売春宿で殺戮を繰り広げる場面をデジタル加工し、ループさせた映像作品《BG》(2024年)を、ジャファはニューヨークのグラッドストーン・ギャラリーでの展覧会のために制作した。加えて、パソコンには犯罪者たちの映像も収められている。白人至上主義者ディラン・ルーフが、エマニュエル・アフリカン・メソジスト監督教会で礼拝中の人々に発砲する直前の姿を捉えた映像もそのひとつだ。ミシシッピ州出身の黒人アーティストであるジャファは、こうした素材を《The White Album》(2018年)に用いた。このモンタージュ作品により、彼は2019年ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞している。

©️アーサー・ジャファ
画像提供:アーサー・ジャファ、Gladstone Gallery、Sprüth Magers、Sadie Coles HQ

152×102cm ©️および画像提供:リチャード・プリンス
2022年の映像インタビューにおいて、ジャファは、イメージの盗用で悪名高く、「ピクチャーズ・ジェネレーション」の寵児でもあるリチャード・プリンスを称賛した。そのなかで彼は、作品のトーンこそ異なるものの、自身の作品のかなりの部分が、技法面においてプリンスの「Girlfriends」シリーズ(1992–93年)に重なると語っている。同シリーズは、バイク雑誌の巻末に掲載されていたきわどいアマチュア写真を再撮影したものだ。またジャファの作品は、1980年代の「Gangs」シリーズにも通じる。こちらは複数の35mmポジフィルムをグリッド状に配置し、一つのインターネガにまとめたイメージの目録だ。ジャファにとってプリンスは、「ある空間から別の空間へと物事を移し替えることを、正当な、コンセプチュアルな身振りとして承認した」存在だった。ジャファがここで遠回しに語っている言葉、それは「アプロプリエーション」である。
『クルックリン』(1994年)や『アイズ ワイド シャット』(1999年)といった映画で撮影監督としてキャリアをスタートさせたジャファは、ファウンド・フッテージをサンプリングするだけでなく、自身で撮影した友人や家族の映像・画像も作品に取り込んでいる。そのため、アンディ・ウォーホルやプリンスに体現されるような、クールでアイロニカルな20世紀のアプロプリエーション・アーティストというステレオタイプには一見当てはまらない。そのプリンスはこれまで、複数の著作権訴訟に直面してきた。写真家ドナルド・グラハムとエリック・マクナットによる二つのインスタグラム投稿を盗用した件をめぐり、プリンスはクラヴァス・スウェイン・アンド・ムーア法律事務所で7時間にわたり証言を行ったが、その記録映像は、2025年、ローマの旧教会を転用した展示スペース、サンタンドレア・デ・スカフィス(Sant’Andrea de Scaphis)での展覧会「Jannis Kounellis / Richard Prince」の一部として上映されている。一方、公開記録を見る限り、ジャファがそのような訴訟に直面した事実はない。むしろ彼は広く称賛されており、ガーナ系イギリス人の映画監督ジョン・アコムフラからは「アート界の救世主」とまで称されている。それでもなお、ジャファはプリンスからの影響を一種の「承認」、すなわち許可を与えるものとして語る。このことは、アプロプリエーションをめぐる尽きることのない議論の核心を指し示しており、さらに言えば、アーティストが美的形式、歴史、神話、逸話、キャッチフレーズに至るまで、あらゆるものを自らの作品の素材として扱うことの問題にも踏み込んでいる。一体誰が、それらを使うことを承認するのか。そもそも承認は必要なのか。そして、たとえ法がそれを許したとしても、なぜなお、何かが間違っているように感じられるのだろうか。

作家による額装 102×81×4cm
©️および画像提供:リチャード・プリンス

©️および画像提供:リチャード・プリンス
プリンスは、アプロプリエーションに対して何ら後ろめたさを抱いていなかった。彼は長年にわたり、マディソン・アベニューの広告やマールボロのキャンペーンだけでなく、作り手や被写体の存在がよりはっきりと見えるイメージをも複製することでキャリアを築いてきた。たとえば、彼が1984年に模写を始めた『ニューヨーカー』誌掲載の手描き風刺画、「Publicities」シリーズ(1999年〜)に登場するセレブリティの写真、そしてボーイフレンドのオートバイの後部にまたがり、ぎこちなくピンナップ風のポーズをしてみせる「Girlfriends」の女性たちの写真などである。初期のインタビューで、プリンスはこともなげにこう語っている。「自分の作品を良いと思ったことは一度もない。……自分で作ったからだ。自分の作るものが気に入らないなら、論理的に考えて次の手は、他人のものを撮って/取って、自分のだと主張することだろう。その「撮る/取る」という行為は、理にかなっているように思えた。……私は、机の前に座り、ただ膝の上で手を重ねているだけでいたいんだ」。彼のこうした悪びれなさは、《Spiritual America》(1983年)においてとりわけ際立っている。同作は、当時10歳だったブルック・シールズのヌード写真(写真家ゲイリー・グロスが1975年に『プレイボーイ』誌のために撮影したもの)を再撮影したイメージだ。倫理的な問題があまりに大きい作品であるため、プラダ財団で開催中の「Helter Skelter: Arthur Jafa and Richard Prince」展では展示されないこととなった。同展では、プリンスとジャファ、二人のアーティストによるさまざまな彫刻やインスタレーションに加え、《Love is the Message》(2016年)、《LOML》(2022年)、《SloPEX》(2023年)を含むジャファの主要な映像作品数点と、プリンスを象徴する写真シリーズおよび絵画のセレクションが紹介されている。

シングルチャンネル・ビデオ(カラー、サウンド)105分
画像提供:アーサー・ジャファ、Gladstone Gallery、Sprüth Magers、Sadie Coles HQ
だが《Spiritual America》をめぐって問題となるのは、二重の「略奪」である。一つは、プリンスがグロスの知的財産をかすめ取ったこと。もう一つは、グロスによるシールズの写真そのものが、子役であった本人の実質的な同意なしに撮影されたということだ。撮影許可書には彼女の母親が署名していたものの、シールズ自身は後にこのヌード写真のさらなる公表差止めを求めたが、その訴えは退けられた。《Spiritual America》をめぐってプリンスに向けられた批判の背景にあったのは、グロスへの同情というより、シールズへの共感であった。とりわけ非難の声を上げたのはフェミニストのメディア批評家たちや、アーティストの巧妙な言説の向こうに、写真が実際に映し出すものを見透かした人々であった。プリンスは「イメージの管理」や「コミュニケーションの恍惚」などと語ってみせたが、そこに写っているのは、カメラのために化粧を施され、オイルを塗られて浴槽に立つ全裸の子どもにほかならない。
「My Black Death」(2003)と題されたマニフェストのなかで、ジャファはヨーロッパ植民地主義が残してきた長い遺産に、私たちの注意を向ける。その遺産こそが、白人アーティストによる黒人文化の大規模な略奪を正当化してきたのだ。ピカソはアフリカ彫刻を収集し、ジャクソン・ポロックはジャズを聴きながら絵を描き、ジョン・ケージはインプロヴィゼーションを実践した。ただしジャファによれば、「インプロヴィゼーション」という語が「あまりにも黒人文化と結びついていた」ため、ケージはその言葉自体を使うことを避けていたという。いずれの場合にも、黒人からの影響は(完全にではないにせよ)消し去られ、その一方で白人アーティストは、独創的であるはずだという見方のもとに正典化された。アプロプリエーションという行為に認可を与えるのは、単なる許可ではなく、権力なのだ。そもそも他者のイメージを制作し、操作し、販売する能力もまた、権力なしには成立しない。権力によって、誰がカメラを操作するのか、誰の肖像が商品化されるのか、そしてそのすべてが実現するために誰の同意が必要とされるのかが決まっていく。荒廃したアメリカの視覚的風景の残滓を貪欲に再利用してきたプリンスが、アートワールドの「異端児」として名声を得てきた理由は、ここに見て取れる。だとすれば、程度の差こそあれ、ジャファもまた、同じ身振りを引き受けてきたといえる。両者とも、最終的には、プリンスが語った「膝の上で手を重ねているだけ」のまま、安穏としていることなどできない。できるはずもない。イメージを用いるには、まず自ら手を伸ばし、それを自分のものだと主張しなければならない。そしてそう主張するということは、そのイメージがはらむ重荷を、自ら背負い込むことを選択しているのだ。
(翻訳=Art Translators Collective)
「Helter Skelter: Arthur Jafa and Richard Prince」展は、ヴェネツィアのプラダ財団で5月9日から11月23日まで開催中。
