1960年、それはいくぶん唐突なしかたで始まった。当時、すでに詩人・批評家として確固たる地位を築いていた瀧口修造(1903–1979)は、同年よりスケッチブックにペンや水彩で描いたドローイングを発表しはじめる。それまでみずからが批評の対象としてきた造形作品に、還暦を目前にして取り組みはじめたのだ。そして最初の個展(「私の画帖から」南天子画廊、1960年10月)からわずか数年のうちに、その取り組みはドリッピング、デカルコマニー、バーント・ドローイングといった技法を通じて、この詩人に固有の作風に発展していった。
ここのところ、アーティゾン美術館を運営する石橋財団は、瀧口修造の作品を精力的に収集している。その数は、ほかの作家との共同制作によるものも含めて163点にのぼるという。そうした背景をふまえると、現在同館で開催中の「瀧口修造 書くことと描くこと」は、第一にこれら収蔵作品の「お披露目」という意味をもつだろう。

前述のように、瀧口の旺盛な制作活動は1960年以後の一時期に集中している。その独特な作風については、視覚的に鮮烈な印象を残すデカルコマニーを筆頭に、戦後日本美術に関心を寄せる人々のあいだでは比較的よく知られていると言ってよい。また、瀧口にゆかりのある富山県美術館のコレクションをはじめ、昨今ではその作品をまとまって見る機会もしばしば与えられてきた。そうした背景のもとで開催された今回の展覧会では、しかしいくつかのキュレーションの妙によって、従来あまり光が当てられることのなかった瀧口の批評/制作活動の特徴が明るみに出されている。ここではさしあたり二点指摘しよう。

第一に、『近代藝術』(1938)をはじめとする瀧口の美術批評には、文字と描画、言葉と図像の「分かちがたさ」を問題とするものがしばしば見られる。たとえば詩人としての瀧口は、1937年に阿部芳文とともに詩画集『妖精の距離』を上梓している。かたや批評家としての瀧口もまた、本展で引用されているピカソ、アルプらに対する寸評が示すように、言葉と図像の共存に大きな関心を寄せていた。むろん、瀧口が1940年にすでにミロについてのモノグラフを上梓していることを考えれば、このこと自体に驚くべき要素はない(ミロこそ、近代絵画において文字と描画、言葉と図像を積極的に組み合わせた画家のひとりである)。だが本展覧会は、石橋財団の近代絵画コレクションに慶應義塾大学・多摩美術大学の所蔵資料をかけ合わせることで、この事実をあらためて鮮明に浮かび上がらせている。
どういうことか。たとえば、展覧会の前半にあたる五階の展示では、瀧口の書物からの引用とともに、ジャン・アルプやアンリ・ミショーの作品が視界に飛び込んでくる。これらはいずれも同財団のコレクションから選び出されたものであり、批評家としての瀧口が関心を寄せていた文字と描画の共存を、実際の作品によって視覚的に提示する試みである。また、前述の詩画集『妖精の距離』をはじめ、これらの作品に並べられた瀧口の書物が、こうしたテーマの一貫性を裏打ちしている。

第二に、いっけん自由闊達にみえる瀧口のドローイングには、実はいくつかの隠れた源泉ないし共鳴を見いだすことができる。瀧口はある文章のなかで、みずからのドローイングの唯一の美点が、おのれの「動機」に対する忠実さにあると言っている。言ってみれば、これらは瀧口の美術批評家としての活動とはべつに、あくまでも個人的な歓びのために企てられたものだ。しかしだからといって、そこにキャリアの長い美術批評家の「自由さ」──ある種の「晩年様式(レイト・スタイル)」によって可能になるもの──ばかりを見るのは公平とは言えまい。実際、瀧口が強い関心を寄せていた何人かの作家のドローイングには、瀧口その人の作品に通じるとおぼしき形態的特徴がいくつも見いだされる。

これに関連してもっとも特筆すべきは、展覧会の終盤にあたる四階の一室で、瀧口のドローイングがクレー、ミショー、フォンタナらの作品と同じ壁面に展示されていることだ。キャプションによれば、かれらはみな、瀧口がそのドローイングに強い関心を寄せつづけたアーティストばかりである。瀧口と、かれが論じた画家たちの作品を同一平面に並べるのはいっけん蛮勇とも言える試みだが、こうした展示方法によってこそ、瀧口の平面作品を自由闊達なものとして処理する安易な視線はしりぞけられる。

それ以外にも今回の展示では、瀧口の作品がほかの作家や作品との関係のなかで、さまざまに読みなおされていた。たとえば瀧口修造・岡崎和郎《檢眼圖》(1977)はデュシャンの《大ガラス》に捧げられたものだが、そのすぐ脇にデュシャンの《グリーン・ボックス》がおかれることで、両作品の関連はすぐれて明白なものとされている。また、最終室にある水彩のドローイング《無題》(制作年不詳)について言うなら、やはり同コレクションに含まれる靉嘔のいくつかの作品と並べられることで、「To Ay-O」というこの作品の献辞に、鑑賞者が適切な注意をむけることができるようになっている。

最後に、「書くことと描くこと」という本展覧会のテーマについて若干のことを書き留めておきたい。会場を後にしてすぐ、ふと思い立って『コレクション瀧口修造』(みすず書房、全14巻)に目を通してみた。瀧口が還暦を前にして制作活動にむかった経緯については、「私も描く」と題された1961年のエセーがしばしば引かれる(『藝術新潮』1961年5月号)。だがそのときわたしの目は、池田満寿夫の銅版画について書かれた次のような一文に引き寄せられた。このシンプルな、しかしどこか謎かけのようなニュアンスのある文章をそのまま引いてみたい──「書くのと、描くのとが、違うということと、同じということについて、いま私たちはよく考えてみなければならない、と私のなかの声がいう」(瀧口修造「朝食のときから始まる──池田満寿夫に」『余白に書く』みすず書房、1966年[『コレクション瀧口修造』第4巻、みすず書房、1993年、155頁])。


ここで瀧口は、書くことと描くことが、同じであるとも違うとも言っていない。その二つが、「違うということと、同じということについて」よくよく考えてみなければならない、と言っているのだ。なおかつここでは、断言ではなく「……と私のなかの声がいう」と締めくくられる文章の屈曲にもしかと注意を払っておくべきだろう。「書く」と「描く」という二つの営為は、単純に「同じ」と言うことも、「違う」と言うこともできない。瀧口がドローイングを通して探求しようとしていたのは、おそらくこの二つの行為がそれとして同定される発生の機微であった。1960年の初個展に寄せて、瀧口はこんなふうにも言っている──「数ヵ月前に一冊のスケッチ・ブックを買ってきたのが始まりでした。わたしは万年筆で線をひきました。そして原稿用紙の文字ではない何ものかをそこに求めました。それは、書いているのか、描いているのかわかりません。その不分明のところが私には問題なのですが」。本展覧会で披露された瀧口の作品群が示すのもまた、たがいに同じであるとも違うとも言えない、文字と描線の「不分明のところ」である。
「瀧口修造 書くことと描くこと」展は、2026 年 6 月 23 日(火)‒ 10 月 4 日(日)まで、アーティゾン美術館にて開催。
星野 太:東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門は美学・表象文化論。著書に『崇高と資本主義──ジャン゠フランソワ・リオタール論』(青土社、2024年)、『食客論』(講談社、2023年)、『崇高のリミナリティ』(フィルムアート社、2022年)、『美学のプラクティス』(水声社、2021年)などがある。
