ポリグラフ、いわゆる嘘発見器として知られる装置は、汗を読む。呼吸や心拍、発汗などの身体の反応は、記録され、読み取られ、判断のための情報へと変換される。その反応は、何が起きているのかを推し量る徴候となる。そこで露呈するのは、何を語るかを選ぶその過程にさえ、意図だけでは統御しきれない身体の変化が入り込むことだ。身体は、本人の説明を待たずに反応してしまう。
リー・キットと千葉正也による二人展「to sweat 流汗」のタイトルは、リーの《He came here to sweat》(2026年)に由来している。キャリアの初期より、絵画を形式よりも実践として模索してきたリーが、近年採用している金属板の支持体とスプレーに、プロジェクションを組み合わせた作品だ。リーは汗について「痛みを感じた時には思考が止まり、汗を流すしかない」と語る。ここで汗は、思考や判断に先んじる。作品に現れる像は、支持体の上に固定されたものではない。色面には、投影光による格子状の層と雲や空の像が現れ、作品の前に立つ者の影も入り込む。こうして像は、重なりのなかで都度変化し、固定されたひとつの像にはならない。
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oil on canvas, panel, pencil on paper, size variable detail
©千葉正也 画像提供:シュウゴアーツ 撮影:武藤滋生
千葉においても、像はひとつの画面に完結しない。本展に際し、千葉は前年のリーの個展が以前とは異なる仕方で自分に迫った理由を、自身の変化に見ている。社会や政治をめぐる緊張が、日常にまで浸潤してくるなかで、リーのつくる「頭の中の小さな音や声」を静かに眺める空間が、以前より切実に感じられたという。そうした感覚は、千葉の近年の制作にもみえてくる。抽象的な観念や思考モデルをいったん重力のある物として現実空間に置き、再び絵画へ引き戻す彼の制作では、思考が物質的な条件にさらされる。《絵画と手紙(偶然並ぶ記号)》(2026年)などに見られるX状の構造は2022年にはすでに現れ、千葉は当時、それを原子や恒星系から家族や国家まで、異なるスケールを横断して表しうる「基本構造」と説明していた。本展では、その構造は作品ごとに大きさや位置を変え、ときに画面を横切り、画布の矩形そのものを意識させる。一方、《花壇(拡張された)》(2026年)を含む一連の作品では、その往還がレリーフや小さな写真、QRコードの先の映像にまで及ぶ。像は一枚の画面へ収束せず、異なる物質と時間のあいだへ分岐していく。2025年の個展「many」では、「語らせようとした瞬間に沈黙する」物をめぐって、捉えきれない対象と、それに意味を与えようとする側との関係が前景化していた。千葉が静物画を「世界に対して困惑する為のフィールド」と語ったことは、こうした対象との関係を考えるうえでも示唆的だ。
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paper, acrylic, pencil, inkjet print on paper, 34x54x7.5cm
©千葉正也 画像提供:シュウゴアーツ 撮影:武藤滋生
二人の絵画は、方法を異にしながら、奇妙に接近する。だが、その接点は、像の形式的な共通項には尽きない。外へ開かれたものを、私たちはどう読むのか。そして、理解しようとするとき、そこで起きていることをどう変えてしまうのか。
リーの作品では、その問いが自己の内部へ折り返される。本展に出品された二つの映像作品、《Apart from reason》と《Quiet will》(ともに2026年)は、いずれも作中のBを通して、自らの状態と言葉とのあいだに生じる距離を扱っている。《Apart from reason》では、BとC──冒頭ではCが “Care” と記される──は、「生きることと生そのものとのあいだ」にある事柄について話し続ける。Cは感情や問題の輪郭をなぞりながら、内省の重要性を繰り返し説く。しかし言葉が重なるほど、一日は引き延ばされ、内省そのものが負荷を帯びていく。形式やスローガンと化した内省は、そこで「無力さと焦燥の音」となる。
これは、リー自身の過去の言葉と照らすと、さらに輪郭を帯びる。2017年、リーは当時の香港で日常を続けていく感覚を “slow suicide” と形容した。社会的・政治的な出来事が日常の感情にまで入り込むなかで、逃れられないものに向き合うことは、自らの感情を「消費」するとも語っている。少なくとも自分の内部では、起きたことを処理し、それに支配され続けないことはまだ可能だった。だが近年、そうして自らを処理し続けること自体が、むしろ疲労を伴うものとして作品に現れている。2025年の個展「Porn」に現れる人物は、疲れ果てながらなお多くのことに強い意見を持ち、理性的かつ批判的でいられない自分自身に耐えられない。

シュウゴアーツ
© リー・キット、千葉正也、画像提供:シュウゴアーツ、撮影:武藤滋生、王露
《Quiet will》では、自己を読み解き続ける回路に、静かな境界が引かれる。床面近くに小さく投影された映像の横には、Bについての文章が流れる。そのなかでBは理由もなく頭を下げ、首を振り、「確かな重み」をもって積もる疲労を感じている。だがBは、「呼吸するように」自然にはっきりと、自分が何に疲れているのか知っている。そこで彼が唯一譲らないのは、名づけられない──あるいは名づける必要さえない──感情や痛みを、そのまま存在させておくための領域を確保することだ。疲労や痛みは、意味づけや判断を待たず、すでに身体に起きている。《Quiet will》が残すのは、起きてしまった反応をもう一度「処理できる自分」へ戻さずにいられる余地だ。

looped video projection, transparent packing tapes,
6min. 54sec., dimensions variable
©リー・キット 画像提供:シュウゴアーツ 撮影:武藤滋生
身体は、希薄なのに、過剰なほどそこにいる。その二重性は、二人の人物像に異なるかたちで現れる。リーの消え入るような顔のドローイング《Untitled》(2026年)と、《A blank stare 21》(虚ろな視線、2026年)は、部屋の角を挟む二つの壁に配されている。前者には顔の輪郭がかろうじて残る一方、後者では「虚ろな視線」が名指されながら、画面に広がるのは、その視線の先とも読める空の像である。その対照のなかでは、人物の状態を示す明瞭な徴候は成立しない。千葉の大判作品《道(再構成)》(2024–2026年)では、薄い線で描かれた人物像に、数点の小さな絵画が置かれている。顔と視線の対応はずれ、ひとつの身体には異なる像が重なる。

colored pencil, pencil on paper 49×36.4cm
©リー・キット 画像提供:シュウゴアーツ 撮影:武藤滋生
何かを可読なもの(legible)にすることは、ときにそれを理解する以上に、こちらの枠組みに収め、扱えるものへと変えることでもある。可読性(legibility)と不透明性(opacity)をめぐる議論が繰り返し問われてきたのも、理解することと、対象を把握可能なものにすることの近さだ。だが「流汗」が示すのは、読まれることへの抵抗そのものではない。千葉では、意味をひとつに固定しようとするほど、読みは別の関係へ逸れ、リーでは、自分自身を理解しようと言葉を重ねるほど、その回路が疲弊していく。問題は、意味が定まらないことではなく、意味を定めようとする働きが、対象や自己との関係に介入してしまうことにある。
本展は、二人が互いの作品を自由に移動し、組み替えてよいという了解のもとで形づくられた。しかし、展示はひとつの声へとは収斂しない。会場で時間を過ごすにつれ、視覚的には作品ごとの輪郭が保たれつつ、リーのサウンドピースは空間全体を満たす持続的な層として意識される。音は境界を越え、千葉の作品を見る時間にも及んでくる。そこでは、絵画を「幾らでも愕然として良い場」と呼んだ千葉の言葉も、自己や対象をひとつの理解へ追い込まない、この展示のあり方に呼応する。

シュウゴアーツ
© リー・キット、千葉正也 画像提供:シュウゴアーツ、撮影:武藤滋生、王露
「流汗」にあるのは、世界との関係から降りられない身体である。汗は徴候として読まれ、言葉は状態を名づけ、絵画はその関係を考える場となる。読むことが始まるより先に、身体は反応してしまう。世界との関係は止まない。二人の仕事が残すのは、自分や世界を最後まで理解可能なものにする方法ではなく、理解が完了しないまま関係が続いていく、その持続の厄介さである。
リー・キット、千葉正也「to sweat 流汗」は、シュウゴアーツにて、2026年7月11日~8月22日まで開催。
