ゴールドスミスCCAで開催中の「FLARE-UP」は、病気や障害、ろう文化などにかかわる多様な経験から生まれる表現を、近年の「クリップ(crip)」という視点も交えながら紹介する展覧会である。Flare-upとは、慢性疾患などの症状が増悪する局面を指す。本展を理解する手がかりの一つとなるのが、社会学者マイケル・オリバーらが理論化した「障害の社会モデル」である。障害の原因を個人の身体のみに求めず、環境や制度、社会的態度との関係のなかで捉えるこの考え方は、障害を社会的・政治的な問題として問い直した。本展は、こうした問題意識と響き合いながら、ケアや共同体、さらには知覚や表現のあり方へと議論を広げていく。しかし重要なのは、それらを理念として提示するのではなく、障害や排除を生み出している社会の制度や価値観そのものを、作品を通して可視化し、問い直している点にある。

転用した両面LED薬局看板、6分47秒のループ映像 画像提供:ゴールドスミス CCA
ソーシャル・ワーカーとして働いた経験をもつレイチェル・クラウザーは、刑務所や介護施設など、人々を守るために設計された空間が、同時に身体や生活を管理する仕組みにもなりうることを主題としてきた。《Qualified to Care》(ケアする資格、2022年)は、廃棄された薬局のLED看板を転用し、南ロンドンにあった学習障害者向けデイセンターの解体直前の内部を映し出す映像インスタレーションである。薄暗い空間に灯る十字架形の看板には、施設が閉鎖される直前にクラウザーが撮影した施設内の風景が映し出される。何気ない映像と廃棄された看板の組み合わせは、緊縮財政のもとで公共のケアが失われ、そこに集っていた人々が社会の周縁へと押し出されていく過程を静かに可視化する。「ケアする資格」というタイトルもまた、誰がケアを担い、誰がケアを受けるに値すると判断されるのかという権力関係を問いかける。人物を直接描かず、環境やインフラ、そこに残された物質的な痕跡を通して社会の仕組みを浮かび上がらせる手法は、障害を個人の身体ではなく、それを取り巻く環境や制度との関係として捉える本展の視点を象徴している。
クラウザーが制度の痕跡を可視化するのに対し、ジェシー・ダーリングは、その制度を支える歴史や価値観そのものへと視線を向ける。ゴールドスミスCCAの建物は、この地域の伝染病予防と貧困層の衛生状態改善のため1898年に建てられた公衆浴場のボイラー室と貯水槽であった。むき出しの配管やタイル張りの内装、機械設備がヴィクトリア時代のまま残るこの空間に呼応するのが、ダーリングの三連祭壇画《The Cleansing of The Temple (Luke 19.46)》(神殿の清め(ルカによる福音書19章46節)、2024)である。宗教的祭壇画の形式を借りながら、白い浴室用タイルに泥や汚れを塗り込み、中央パネルからは厚い工業用ビニールカーテンを垂らすことで、一般に「汚れた場所」とみなされる空間を神聖な場へと持ち込む。タイトルは、イエスが神殿から両替商を追放した聖書の場面に由来し、この逸話は一般に商業主義や腐敗への批判として解釈されてきた。ダーリングはこの物語を現代に置き換え、真に「浄化」されるべきなのは、資本主義的な価値体系や、それを支える社会の規範そのものであることを示唆する。泥に覆われたタイルは、公衆浴場や地下通路など、身体が交差し、ダーリングがクィア文化とも結びつける公共空間を想起させる。そこでは、公共と私的、聖と俗、清潔と不潔という区分は固定されたものではなく、どのような身体や空間が社会的に受け入れられ、あるいは排除されるのかという価値判断そのものが問い直される。

画像提供:ゴールドスミス CCA 写真: Rob Harris
こうした衛生や浄化をめぐる問題は、本展のためにコミッションされたアヴリル・コルーンの《Sublet Glory》(又貸しの栄光、2026年)において、住宅政策や公共サービスの縮小を背景とする、住宅環境と健康をめぐる制度的な問題へと引き寄せられている。湿気による健康被害に苦しむ家庭から集めた除湿器の水を点滴バッグに満たし、シャンデリア状に吊るした本作は、水滴が床のラグへゆっくりと染みを広げる光景を通して、劣悪な住環境と健康被害との切り離しがたい関係を可視化する。
リア・クレメンツの《Pure Joy》(純粋な喜び、2026年)では、環境が身体に及ぼす作用から、身体と世界との関係そのものへと焦点が移る。作品が置かれた2階まで吹き抜けの中央空間には、ヴィクトリア時代のレンガがそのまま残され、礼拝堂のような静謐な雰囲気が漂う。身体や意識、時間の状態を変容させる媒介として水を作品に取り入れてきたクレメンツは、本作で、ある女性が語る臨死体験にコーラスと弦楽器の響きを重ね合わせる。鑑賞者はビーンクッションに身を横たえ、頭上の水面に反射する揺らめく光と、寄せては返す音のなかで、その語りに耳を傾ける。この証言が描き出すのは、自己と他者、身体と世界との境界が溶け合い、あらゆるものとのつながりを感じる「オーシャニック・フィーリング」と呼ばれる感覚である。それは必ずしも障害者に固有の経験ではないが、クレメンツは、このような経験を、病や障害のある身体の経験から生まれる固有の喜び「クリップ・ジョイ(Crip Joy)」とも響き合わせている。臨死体験の語りと「クリップ・ジョイ」を重ね合わせることで、本作は障害を欠如や不運としてではなく、身体や知覚の違いから立ち上がる喜びや、他者や世界との関係のなかに新たな共同性がひらかれる可能性を示している。

壁一面に連なる詩のようなテキストからは、一人の身体を支える営みが、多くの人々の時間や関係性によって成り立っていることが静かに浮かび上がってくる。パーク・マッカーサーと、マッカーサーの介助にも関わってきたコンスタンティーナ・ザヴィツァノスによる《Score for Backing Up》(支え合うためのスコア、2013年)は、こうした相互依存のあり方を象徴する作品である。壁面に記されたテキストは、二人が介助の経験を通して書き交わした言葉や、身体を支え合う行為のスコアから構成されている。その背景には、複数の介助者が交代でマッカーサーの日常生活を支える「ケア・コレクティブ」の実践がある。「38インチにも及ぶ名前の一覧」は、ケアを特定の家族や介助者に委ねず、多くの人で分かち合い、その役割を次へ受け渡してきた過程を記録している。身体を持ち上げ、支え、呼吸を合わせる介助は、「介助する人」と「介助される人」という固定的な関係ではなく、互いの身体が応答し合いながら一つの出来事をつくり出す共同実践として描かれる。その親密さは、恋愛や家族関係とは異なる、「自らのアクセス・ニーズを深く理解されている」という感覚を指す「アクセス・インティマシー」にも通じている。クレメンツの作品で示された共同性の可能性は、ここでは具体的なケアの実践として現れる。一方で、このようなケア・コレクティブを誰が担い、その関係を長期的に維持していくのかという問いに、本作は明確な答えを与えない。しかし、介助を互いの身体やアクセス・ニーズに応答する共同実践として捉え直すことで、合理的配慮そのもののあり方をより開かれたものへと転換する可能性を示している。

画像提供:ゴールドスミス CCA 写真: Rob Harris
ろう者であるクリスティーン・サン・キムは、幼い頃から映画やテレビを字幕を通して鑑賞してきた。《Close Readings》(精読、2015年)では、ハリウッド映画から選ばれた同一の場面が、四台のモニターに同期して映し出される。映像の大部分がぼかされているため、鑑賞者の注意は登場人物の姿ではなく、四人のろう者・難聴者がそれぞれ作成した字幕へと導かれる。ここで字幕は、聞こえない人のために音声情報を補うだけの補助装置ではない。音がどのように知覚され、解釈され、言語化されるのかを可視化する表現となる。

作品は、「聞こえる/聞こえない」という二分法を揺さぶり、音を文字として読み、想像し、意味づけるという異なる知覚の回路を提示する。ただし、本作も、すべての人に等しく開かれているわけではない。視覚障害のある鑑賞者には、音声解説がなければ情報は届きにくく、英語を理解しない鑑賞者には、字幕が生み出す差異やユーモアを十分に読み取ることは難しい。つまり、アクセスとは、作品に後から付け加える補助的な機能ではなく、誰がどの感覚や言語を用いて作品と関わるのかによって、その都度組み立てられる関係なのである。翻訳や字幕が、特定の感覚や言語を標準とする環境と鑑賞者との関係を組み替えるように、本作は、多様な身体や知覚から新たな表現や鑑賞体験が生まれる可能性をひらいている。

「FLARE-UP」展が示しているのは、「ケア」や「共同体」を理念として語るのではなく、それらを制度やアクセス、身体経験、言語、知覚といった具体的な実践のレベルへと引き戻している点にある。それぞれの作品は異なる角度から、社会が当然視してきた「自立」や「正常さ」を揺さぶり、それらが特定の身体や知覚、制度を前提として成り立ってきたことを浮かび上がらせる。その一方で、ケアを誰が担い続けるのか、アクセスが誰に対して成立するのかという問いは残る。そうした未解決の緊張を抱えながらも、本展は、障害を既存のアートの構造 に収められる主題としてではなく、制作や鑑賞の条件そのものを問い返す視点として提示している。
「FLARE-UP」展は、2026年8月16日まで、ゴールドスミスCCA にて開催。
橘 匡子:英国ジャパンソサエティでイベント事業の主任を務める傍ら、NPO法人エスエアにてレジデンス事業にも携わる。
