美術作品を舞台に立たせることによって可視化する欲望とはどの様なものか?それは(ジャン・ラプランシュとJ-B・ポンタリスが定義した)ファンタシー[幻想]のように、複数の入り口を持ち、欲望を演出するシナリオの様なものでありえるだろうか。そしてその欲望と時間性・歴史の関係性を探ることによって滲み出る倒錯とは如何なる役割を果たすのか?いま韓国ソウル市アート・ソンジェ・センターの地下にある劇場に設置されているキム・ムヨンの個展「PIG」はこれら一連の質問を投げかけてくる。改装間近のこの劇場は映画、演劇、パフォーマンスに関心を持つ作家にとって適当な空間であるといえよう。今回の展示は複数の媒体を駆使するキムのオブジェと写真作品で構成されており、そこにある八つの作品のうち五つ、つまり大半、は日本との関係性を持っている。それらの作品のモチーフは日本にまつわる「女乗物」、「横浜手彩色写真」、「植民地支配」、「花嫁写真」そして日本刀の鞘や柄に巻かれた「鮫皮」(実際はエイの皮)である。すでに公開されているインタビューやプレス・リリースでは、キムのアナログ技術や暴力に対する関心が語られて来たが、ここでは違う角度-BDSMとドラァグ(drag)というキーワード-から展示作品と冒頭に記した課題を考えたい。
上記五つのモチーフはいずれも旧時代のものであり、女乗物と鮫皮は江戸;主に海外旅行者向けに生産された横浜手彩色写真と和装の結婚写真は明治;日本による朝鮮植民地支配は明治・大正・昭和時代に由来するが、本展は単に過去を振り返るものではなく、フロイト的な事後性、特に性的体験やトラウマが後から意味を持つ現象、をなぞる様な印象を与える。これらの作品群を動かす過去への執着は、展覧会のタイトルにある英語演劇用語で「ピッグ」と呼ばれる錘の様に、時の進みを引きずらせ[drag]、同時にその過去を甦らせるが、その蘇った形・様式はキムの手によって異性装演者[drag queen]が化粧を塗る様に、誇張されている。

日本植民地時代に韓国南部、小鹿島に設置されたハンセン病療養所、小鹿島慈恵医院の収容者たちは強制隔離、強制労働、断種など残酷な仕打ちを受けたが、《Pastoral I》[牧歌的 I]、 《Pastoral II》(2026)でキムは同施設の中から窓の外に向けて撮影したグレートーンの白黒写真を、「横浜写真」を擬態するように細筆を駆使して顔料で着色している。しかしその色彩は現実性を拡張するものではなく、薄紫や黄色のパステルカラーで構成されており、そこに刻まれた暴力を覆い隠す様である。《Sky I》、《Sky II》(2026)は日本植民地時代、1908年に独立運動家を非人間的な環境に収容し、拷問する為に建設された西大門刑務所を復元工事中に撮影した写真であるが、ここでも、白黒のイメージは刑務所内で繰り広げられた暴力行為とは対照的なパステルカラーで着色されている。更にこちらの写真は工事中の建物を覆うターポリンに印刷された、美しくモダンな刑務所の赤煉瓦で出来た外観の写真の下に透けた実際の建物を捉えており、複数の層を孕んだ画像になっている。

無論そこには醜い現実が美化された事実を批判する側面もあろうが、それ以上に弱者への関心と、特定の人間を非人間として扱った残酷な歴史に多面性を与える為に、暴力をエロティシズムとして経験する可能性を探究している様に私には見える。上記の写真作品に加え、舞台上に設置された女乗物を原寸大で再現し、ダチョウの皮で覆った《Betrothal Norimono for House on Glabella》[House on Glabellaのための婚礼乗物](2024)や、キムが中国で見つけた鳴虫籠を拡大したスケールで再現し、漆塗した《Bedridden》[寝たきり](2026)を検討すると、そこにはフロイトの分析した「子供が叩かれる」といったストーリーにも似た、「〇〇が囚われる」という幻想が体現されているように思える。いずれの作品においても、歴史的事実を一面的に批判することや酷い仕打ちを受けたものを被害者としてだけ象徴することを、様式美を追求することによって回避し、いかなる醜い事象もが幻想の舞台になりえる可能性を示唆しているのではないか。この様な解釈は不謹慎と感じられるかもしれない。然し乍ら、性的欲望において秩序は解体され、抑圧も不自由もエロティサイズされ得るのであり、その典型例がBDSMである。

相手や相手が置かれた状況に変化を要するサディズムには物語性と継続的な時間性が不可欠であるため、極度に劇的な性的倒錯だと言えよう。周知の通り、フロイトの定義では、直線的に異性間の性器性交に向うのが社会的に正常とされている性行為であり、倒錯とはその筋を通らない性行為である。故に直線的でない時系列やストーリーがクィアな時間性を構成すると言える。そしてその時間軸はまっすぐでないだけでなく、前に進まないこともあるだろう。現代を支配する「タイパ」的な時間性とは対照的に、マゾヒストは「待たされる」、「焦らされる」といった非生産的な時間を快楽として経験する。「PIG」が試みているのはその様なクィアな時間性の実践であり、そこに展示されている作品は決して回顧的ではない。皮のなめしや写真の手彩色といった時代錯誤的な手法を学習し、駆使することにより過去の時間制に自分をインストールし、その中から過去を倒錯することによって終結される意味合いをずらし、じらしているのだ。その結果、撹乱された幻想の舞台では、主語位置も流動化し、能動/受動といった役割さえも変換しえる。其処にはdragの様に他者になる喜びもあるかもしれない。

かつてシュルレアリズム運動にも参加したロジェ・カイヨワは昆虫における擬態について何度も論じたが、人間の変装、仮装、上演、演技を擬態と瓜二つであると書き、擬態は自衛手段ではなく、昆虫がその環境との差異をなくす欲望の産物だとも論じた。自我が不明瞭になるというのは、小さな死を迎えることにも似ているかもしれないが、安易に解放と解釈するべきではないだろう。キムの写真作品《Pinned Gray Leaves Beside a Cricket Cage》(2026)では《Bedridden》(2026)の原型である鳴虫籠が斜めに立上げられており、同鳴虫籠の下敷きにされる様にピンで固定されたコノハムシが枯葉の様な薄黄色に着色されている。籠は逃れ、擬態はしたものの、自分からも他者からも解放されるのは困難だということであれば、それはまた歴史的な暴力行為においても、幻想化により複数の入り口を備えることは出来るが、反復する設定やシナリオの突破の可能性に関しては悲観的であると言わざるを得ない。
「PIG」は加速された時代に一石を投じる稀な展覧会である。舞台上に作品を設置することにより、展示における演出作用を前景化しているが、意図的に不透明であり、観者をすっきりとさせるオチも持ち合わせていない。引きずらされ、失速した時間で観者を誘惑し、そこに感じえる混沌と、グルグルと螺旋状に動くような時間性は歴史、欲望、そして美と暴力に関して考えを深める機会を与えてくれる。
「Muyeong Kim: Pig」は、アート・ソンジェ・センターにて、2026年8月28日–10月4日まで開催。
*この文章はエリザベス・フリーマン著『Time Binds: Queer Temporalities, Queer Histories』(2010)の影響下で書かれています。
