忘却と権威のあいだで
渋谷区立松濤美術館で企画展「路上、お邪魔ですか?」が開催中だ。金沢21世紀美術館からの巡回展で、出展作家は5組減り、1組が加わったものの、基本的な構成は引き継がれている。
私は作品を出品しているわけではないが、本展には長く携わってきた。2024年に学士会館で開かれたプレイベントから、オンラインでの配信、金沢でのトーク、カタログへの寄稿、渋谷でのシンポジウム登壇まで。そうして展覧会に伴走するなかで、さまざまな感想や批評を耳にした。会期も終盤を迎えたいま、それらの言説を自分なりに交通整理してみたい。
まず、金沢でも渋谷でも本展の中核にあるのは、路上観察学会のアーカイブ展示だろう。過去の雑誌や写真、建築模型、テレビ番組の映像から、40周年記念シンポジウムに寄せられた藤森照信の直筆原稿まで、多岐にわたる資料が並び、その密度と熱量は展示のなかでも際立っていた。学会結成40周年が企画の契機になったことも学芸員から聞いている。興味深いのは、その路上観察学会を「確立された権威」と見るか、「忘却された文化運動」と見るかで、評価が大きく分かれることだ。
-撮影:植村佳弘-1-1230x820.jpg)
私が現代美術に関わってきた2000年代後半以降、路上観察や超芸術トマソンは、美術界ではほとんど忘れられているように見えた。地域芸術祭ではサイトスペシフィシティや当事者性が盛んに語られるものの、路上観察はさほど参照されない。美学校で教える学生にも馴染みがなく、私は自分の講座で取り上げるようになった。
戦後日本の現代美術史でも、路上観察学会の位置づけは希薄だ。赤瀬川原平といえば、1960年代のハイレッド・センターや千円札裁判が代表的な活動として語られ、70年代以降の美術史は、もの派など別の動向へと中心が移る。80年代の路上観察学会はむしろサブカルチャーとして受容された。しかし私は、そのサブカルチャーへの展開こそ、既存の美術史が取りこぼしてきたオルタナティブとして捉え直せるのではないかと考える。
ところが、路上観察学会はすでに十分な権威であり、本展はその権威を強化するだけだという声もあった。たしかに80年代にはテレビや雑誌を賑わせ、建築界では藤森照信の活動が高く評価されている。渋谷での40周年記念シンポジウムも700人を超える満員だった。美術界で忘却されたように見える存在が、別の領域では権威として機能しているのだ。
たとえば写真家の大山顕とは、モールをテーマとするトークイベントで本展について議論した。 大山は、路上観察学会を軸に据えることで『VOW』やデイリーポータルZなどの実践が十分に扱われていないと批判する。また、40周年記念シンポジウムでは、片手袋研究の石井公二や『街角図鑑』の三土たつおら、後続のネット世代から先行者への対抗意識も感じられた。
なるほど、彼らの指摘には頷く点が多い。ただ美術史の観点からすれば、まず路上観察学会を歴史的に位置づけることに意味があるのではないか。後続の実践を軽視するためではなく、それらを論じる足場をつくるために。村上隆が「スーパーフラット」を通じてオタク文化を現代美術へ接続したことで、キャラクター絵画が美術館で扱われるようになった経緯にも通じる。歴史化は必ずしも権威への追認ではないはずだ。

君が代が流れると頭をかかえてうずくまった。1996年8月 ©迫川尚子
路上のアクチュアリティ
もう一つの争点は、「路上」という言葉の解釈である。哲学者・批評家の福尾匠は、私の運営するYouTubeチャンネルで、本展が掲げる「Shared Ground」という英語表現から、共生のユートピアを見出す理念を読み取り、疑問を呈した。そもそも路上とは、ロードかストリートか、はたまた路地か街路か大道か、多義的なニュアンスを含む言葉だ。それを「共有される場所」と捉えるのは、路上の意味をあらかじめ方向づけることでもある。
もっとも、本展は路上を単に理想化しているわけではない。その構想には、2020年に渋谷で起きた路上生活者の女性の殺害事件が関わっていた。加害者が発した「彼女が邪魔だった」という言葉は、そのまま展覧会のタイトルにも響いている。路上はオープンな交流の場であると同時に、暴力や排除が生じる場所でもあるのだ。本展もまた、その両義性を出発点にしていると言える。
実際、路上には秩序や共生から逸脱する自由もある。自ら秩序を逸脱することと、そこにいるだけで他者から排除の対象とされることは、むろん同列には語れない。前者が自らの意思による行為であるのに対し、後者は他者によって存在そのものを否定される暴力だからだ。
そのうえで、たとえば格闘家の朝倉未来が「路上の伝説」と呼ばれるのは、リングという制度から逸脱する危うさが、ある種の奔放な魅力を帯びるために他ならない。あるいはデモや暴動もまた、路上が抵抗や衝突の舞台となることを示している。一方、道路は制度上、警察や行政によって管理される空間でもある。元国土交通省道路局長で現香川県知事の池田豊人と対談した際には、道路を通行だけでなく、にぎわいの創出にも活用できる場所へと開く法改正について議論した。すなわち路上の内実は、使う側と管理する側の双方から絶えず書き換えられているのだ。

このように、路上はさまざまな力がせめぎ合う空間である。それゆえ渋谷で開催されている本展には、路上と地続きのアクチュアリティを期待したくなる。ただし、本展はあくまで金沢からの巡回展であり、路上観察学会のアーカイブを中心に、過去の実践を振り返る博物館的な性格が強い。展示の冒頭から、大正時代の道路標識が、美術館の円窓を背景に据えられているのが象徴的だ。迫川尚子による1990年代の新宿西口段ボール村の写真や、山田脩二、児玉房子によるかつての路上の記録など、歴史的な出来事を展示室のなかで再構成する資料や作品も目立つ。もちろん、渋谷会場から新たに参加したビッグイシューの屋台は、路上生活者の現実に目を向けたものだ。また、銭湯山車巡行部は失われゆく銭湯文化を現在の路上へと持ち出し、GROUPは未来の渋谷の都市像を構想している。ただ、メインの吹き抜けに展示されたChim↑Pom from Smappa!Groupの《道(Street)》は、約10年前に台湾で展開されたプロジェクトである。ギリヤーク尼ヶ崎も会期中に新宿で大道芸を行ったが、展示室で紹介されているのは過去の公演記録だ。

とはいえ、この展覧会に路上そのものを映し出すことまで求める必要はないかもしれない。松濤という閑静な高級住宅街に建つ美術館から少し歩けば、インバウンドの行き交うスクランブル交差点があり、再開発で姿を変え続ける渋谷駅がある。往来する人々でごった返し、自由と秩序がせめぎ合う現実の路上は、展示室の外に広がっているのだ。

かつてユースカルチャーの発信地だった渋谷も、都市としての役割を大きく変えつつある。先日の西武渋谷店の閉店が示唆するように、かつてこの街を彩った文化もまた、歴史の一部になり始めた。そうした転換期にある渋谷で、本展は路上をめぐる実践を暫定的に収集し、美術史のなかに位置づけようとする。たしかに、路上とは交通整理しきれない空間だ。そこには、路上の自由や逸脱を美術館という制度に回収してしまう矛盾もある。その限界を引き受けながら、それでもなお、路上の歴史を編み直すこと。その試みにこそ、本展の可能性があると私は考えている。
「路上、お邪魔ですか?」は2026年9月19日(土)から11月23日(月・祝)まで、渋谷区立松濤美術館にて開催中。
中島晴矢:アーティスト、文筆家。1989年神奈川県生まれ。美学校「現代アートの勝手口」講師。近代文学・サブカルチャー・都市論などを補助線に、現代美術・文筆・ラップを横断して活動。主な近年の個展に「ゆーとぴあ」(WHITEHOUSE・2025)。著書に『断酒酒場』(2026)など。
