本書が主な分析対象として掲げるのは、「『自らが少女であった女性作家たち』によって2000年ごろから描かれるようになった」(16頁)、とりわけ「暗く恐ろしい側面」(同)を有している少女を描いた絵画作品である。具体的には、嘔吐、身体の切断、自傷、血や内臓、半人半獣のキメラなど「おぞましさ」を喚起する姿やモチーフとともに描かれた少女たちの表象である。序章で述べられているように、近年、日本の現代美術においてジェンダーやフェミニズムへの関心が高まり、展覧会開催に加えて、美術界や教育機関におけるジェンダーバランスの不均衡やギャラリーストーカーといった構造的問題が指摘されている。だが、歴史学や社会学、とりわけ少女マンガ研究の豊富な蓄積に比べると、ジェンダーやフェミニズムの視点に基づく「少女」の表象分析は後塵を拝しているのではないか。こうした問題提起から、現代美術における少女の表象分析に切り込もうとする姿勢に、本書の画期性がある。
本書は北海学園大学大学院に提出した博士論文を元にしていることもあり、前半は、「少女」という存在を論じるための歴史的・社会的文脈を押さえることに比重が置かれている。「少女」とは、1899年に発令された高等女学校令以降、〈良妻賢母になることを国家に期待される層〉(22頁)として社会的に構築された、近代が生み出した存在であること。同時に、近代国家が要請する「良妻賢母」の社会規範のなか、大正期以降、少女雑誌を中心に「少女文化」が醸成されていった。例えば中原淳一や内藤ルネが描いた、夢見るような瞳に、リボンやフリルをあしらった洋服で着飾った少女たちのイラストが、読者層の憧れの的となった。こうした「リボンとフリル」すなわち「ひらひら」が象徴する少女文化を論じ、1980年代の少女論ブームの火付け役になったのが本田和子である。進学や就業という明確な目的が設定された男子学生とは異なり、少女(女学生)は「異性に妻として選ばれ、出産して母となる」という、「自身の努力や意志だけでは達成不可能な目標を与えられ」(82頁)、不確定な未来までの「宙吊り」の時間を繭にこもって過ごしながら、独自の文化を育む。「少女的なもの」で満たされた繭のような世界にこもる存在として少女を論じた本田の少女論は、女性の社会進出を歓迎しない男性論者にとって都合の良い側面も持ち、上野千鶴子らフェミニストによって乗り越えるべき批判の対象となった。しかし本書は、「少女を主体として捉え、その言葉に近づこうとする、フェミニズム的実践」(108頁)として再評価を試みる。
このように本書は、近代・資本主義・家父長制・ジェンダーという構造的問題が交錯する「少女論」の広範な射程を示し、フェミニズム内部の論争や時代的変化にも触れる点で示唆に富む。一方、「2000年代以降に描かれた少女の表象」についての具体的な作品分析の比重は相対的に少なくなることは否めない。

油彩・キャンバス、194.0 × 324.0 cm
Courtesy of MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w(本書掲載 170頁)
「おぞましさ」を有する少女の表象分析において、本書の理論的支柱となるのがジュリア・クリステヴァの「アブジェクト」概念である。「アブジェクト」とは、体液、排泄物、吐瀉物など自他の境界を脅かす存在であり、母胎と一体化していた子どもが父権的な言語・秩序で統制された世界(象徴界)へ入っていくためには、棄却すべき「おぞましいもの」と見なされるが、同時に魅惑的でもある。著者はクリステヴァの議論を敷衍し、「少女」自体がアブジェクト性を有すると主張する。著者によれば、大人と子どもの中間領域にある少女は境界侵犯性を持つことに加えて、「母親としてのアブジェクト」(48頁)を備える可能性を有しつつ、身体的には未成熟な部分を残しているという理由に基づく。本書の分析対象の中心は、そうしたアブジェクト性を有する少女が、さらに嘔吐や血、内臓の露出、身体の切断や欠如、半人半獣のキメラなど、「アブジェクト」を加算して描かれた絵画作品である。それらは、本書が批判の俎上に乗せる澁澤龍彥の少女論や、会田誠や村上隆の作品群に顕著なように、男性の性幻想や欲望を一方的に投影した「内面を持たないオブジェ」としての少女像に対し、強烈なアンチを突きつける。女性作家が「『自らの心の内を主体的に語りはじめる』作品」(172頁)は、社会に浸透したルッキズムや女性の「若さ」の商品化を敏感に意識させられる思春期において、拒食や自傷といった身体的反応として表出せざるをえない痛みを「アブジェクトの加算」によってあぶり出す。

ただし、こうした少女の表象に対して、忌避と・・魅惑の両側面を持つクリステヴァの「アブジェクト」概念を踏まえて論じることには、危険な罠もある。本書では、濵口真央、松本潮里、後藤温子、イヂチアキコといった作家を取り上げる際、画集シリーズの『美人画ボーダレス』『美人画づくし』(ともに芸術新聞社)に掲載されていることを繰り返し挙げている。「耽美系」「病み系」と一蹴されないための「評価の根拠」として挙げていると思われるが、「美人画」というカテゴリーになおも収められ、消費されていることに対しては言及がまったくない。また、例えば、表紙カバーに掲載された橋爪彩の《Girls Start the Riot》(2010-11)では、顔が隠れた少女たちがセザンヌの静物画を思わせるテーブルに上り、果物を踏みつけようとするさまが描かれており、作家の言葉を引きつつ「橋爪が描いた少女たちが静かに反抗を示すのは、西洋中心に編まれた芸術の伝統と保守的なシステムである」(226頁)と述べられる。確かに少女たちは反乱の兆しを見せているが、「見られる対象」としての果物や器が置かれるのと・・同じテーブルの上になおも身を置いており、匿名的に隠された顔は「こちらを見返す視線の主体」ではないことを暗示し、短いスカートからのぞく太ももやキャミドレスから露出した陶磁器のような肌は、性的な視線を惹きつけることを十分意識して描かれている。少女たちの身体は、なぜ、なおも性的に眼差される余地を残しているのか。それは誰のどのような欲望なのか。「アブジェクト」概念を敷衍する限界も含めて、より踏み込んだ議論が必要ではないだろうか。

また、本書は「少女期を経験した女性作家であるからこそ描ける内面や心情」を繰り返し重視しつつ、議論の最終地点としては「誰しもに多かれ少なかれ備わる精神性としての少女性」(272頁)へと向かう。中嶋彩乃による本書の書評(『REPRE』57号、2026年)でも指摘されているように、ここには矛盾や緊張がある。「精神性としての少女性」は年齢や性別に関係なく備わるものだとされるが、なぜ描く主体は「少女期を経験した女性作家」に限定されるのか。また、「精神性としての少女性」という言葉は、「年齢や性別に関係なく、我々の内に秘められた少女性だ」(273頁)というイケムラレイコの発言に依拠したものであり、「われわれは精神性としての女性性や男性性をもつ」(272頁)ように、内なる少女性を有しているという主張を展開するには、もっと丁寧な議論が必要ではないだろうか。だが、「アブジェクト」概念を少女に敷衍する著者の論点の核は、父権主義が何を抑圧してきたかを暴きつつ、その異議申し立て行為がどう共犯関係をはらんでいるかに迫りうる点にある。議論を曖昧に開くのではなく、精緻な言語化によって父権主義そのものを切り崩していく作業にこそ、フェミニズム批評の神髄があると期待したい。
また、本書は分析対象をあくまで「絵画作品」に限定している。理由としては、先行研究として、「美少女の美術史」展(2014-15年)の図録『美少女の美術史―浮世絵からポップカルチャー、現代美術にみる“少女”のかたち』(青幻舎、2014年)を参照していることが大きいだろう。だが、絵画への限定は、「日本の現代美術における少女の表象」という広大な射程を自ら狭めてしまうのではないだろうか。例えば、グリムやアンデルセンの童話における少女=純真無垢な犠牲者/老女=醜悪な悪役という二項対立を撹乱し、(性的)虐待やカニバリズムといった「おぞましい」行為が演じられるやなぎみわの写真シリーズ「フェアリー・テール」(2004-06年)や、「少女文化」を構成する記号的要素(リボン、レース、フリル、バラ、「ピンク」という色彩)を過剰に散りばめつつ、「少女文化」の表層性と性産業を重ね合わせる西山美なコのインスタレーションが想起される。また、相磯桃花(あいそ桃か)は、アニメの「萌え絵」風のキャラクター表象を用いつつ、暴力的なまでの変形や生身の肉体を持たない記号性を増殖させ、魅惑と嫌悪感を往還しながら見る者とキャラクターの関係性を問う。「少女」の表象を批評的に問う作業は、この社会の構造的歪みや潜在的欲望を問い直す批評的な視線となる。本書は、その広大な一端を指し示している。
『おぞましさと戯れる少女たち フェミニズム美学から読む日本現代美術の少女表象』著者:山田萌果、出版社:青弓社、2026年
高嶋慈:美術・舞台芸術批評。近畿大学非常勤講師。ジェンダーやクィア、歴史の(再)表象などを軸に、現代美術とパフォーミングアーツを横断的に批評する。ウェブマガジン『artscape 』にて連載。近刊の共著に『鷹野隆大 カスババ -この日常を生きのびるために-』(水声社、2025)、『百瀬文 口を寄せる Momose Aya: Interpreter』(美術出版社、2023)など。
