町には何層もの歴史や意味が重なって共存している。東京やその周辺に点在するニュータウンでは、消費と生産性を主に促進する様、空間が厳密に管理されているため、その多義性が見え難いが、それでも、必要性や欲求によって町の中で視えるものは異なってくる。野外撮影している写真家が無断で使えるコンセントを、スケーターがスポット(滑る場所)を、車いすユーザーがバリアフリーな入り口を、路上生活者が中間アームレストの無いベンチを、グラフィティー・ライターが未開拓かつ目立つ壁面を探しながら街を徘徊している。参加作家の一人、中島晴矢が言う様に、計画的に建てられたニュータウンは特に完成度が高く、隙間の少ない空間だ。便利と思う人もいれば窮屈と感じる者もいる。あざみ野のような綺麗なニュータウンにいるとインターフェアレンスを起こしたくなる人が私以外にも、居る。出来るだけ大きな音を出しながら街中を鬼プッシュで疾走したい。車の窓を開けて悪いヒップホップを爆音でかけたい。干渉や妨害をしたい。潤滑油に混ざった砂利になりたい。本展はそんな気持ちを、現代アートを介して代弁してくれる。市民ギャラリーで開催されている展示なのに随分攻めている!と称賛したい。

干渉や妨害という意味の「インターフェアレンス」がテーマなだけにストリート、あるいは写真家荒川晋作と関川徳之によるプロジェクト「川」の言葉で言う、「野生」のスケーティング、そしてグラフィティー色の強い作品が多い。石崎朝子の《トレーシング・シティー》(2022)はコロナ禍に製作されたビデオ作品であり、作家が歩きながら人差し指と中指で都市空間の色々な表面をタイトル通り、なぞっている映像で構成されている。実際に構図に写っているのは手のアップだが、なぞっている面に現れたギャップを指で飛び越す動作はまさに指スケそのものだ。そしてその後に作家のピースサインを撮った写真《フィンガー・レコード》(2022)がギャラリーの壁の角や、高いところや低いところから観者に向く様子は、都市の至る所に蔓延り、モブの秩序を嘲笑うタッグのようでもある。

グラフィティーへのオマージュは、16台の小さなモニターに流れる加藤広太との共作《Voice Cleaning》(2024)にも観られる。ここではボディーカメラを着けた作家が、タッグを消すように拭いているが、結果的にタッグを見えやすく壁面を綺麗にしただけ、というオチがつく。そしてこの映像作品と共に、タッグを拭くために使われた布を手で広げた作家が写った写真のプリントを、作家が消しゴムで擦り、プリントにタッグのような傷をつけた作品《City Statement》(2024)が展示されている。ユーモアセンスがあり、そもそもスケートやグラフ文化に関心のある観者の防御を下げ、口角をニヤリと上げる力を持った作品群だが、ジャック・デリダ的痕跡、フランシス・アリスの歩きの作品、ロバート・ラウシェンバーグの《消されたデ・クーニング》(1953)を彷彿とさせ、インターフェアレンスよりもレファレンス感が強く、もう少し抜け目や引き算があっても良い様な気もする。

インターフェアレンスの実践を捉えているのは中島晴矢と川の作品だ。前者の《バーリ・トゥードinニュータウン》(2014、2026)は、愛憎を抱くと言う作家が生まれ育ったニュータウンで路上プロレスがゲリラ的に繰り広げられる風景を捉えたビデオ作品である。引きで撮られたシーンが多く、のどかと言うより殺風景なブルータルなスケールの建築物を背景に行われるショボいレスリングは滑稽で健全でどこか微笑ましい。引き画での撮影は、技のデカさを見せる為スケート写真でもよく使われる技法である。兎角スケート雑誌では技の決定的瞬間を捉えた写真が掲載されるなか、川は技の前の溜めやスポットを検討するスケーターなども被写体として、過程を含めた一連の生き様をスケートして定義している。このアプローチはマーク・ゴンザレス、リッキー・オヨーラ、ボビー・プリオなどによって実践されてきた、スポット探しから、を創作行為として町を滑るスタイルを継承している。展示されている大きいプリントの一つでは田村星斗がボコボコ、ザラザラの岩の様な直角に近いコンクリの面をフロントサイド・ウォール・ライドしている。何故ここで滑られると思ったのか、この岩面にどの様にラインを見出したのかと想像を膨らませるイメージである。そもそもスケートはコンクリートを波と見做す妄想から生まれたものであり、オリンピックや大企業の参入、パークの建設などによって管理されるスポーツとしてのスケートとは対照的に、川に観られる異常なスポットへの執着はスケート文化の奥底にある欲望を喚起する。

町を非生産的に練り回す行為はスケートに限られたものではない。本展で最も衝撃的である松田修による三つのビデオ作品のうちの二つ-《いるか》(2023)と《呪い》(2020)-も遊歩を通して制作されているが、川や石崎の展示作品とは様式も切り口も異なる。《呪い》は接写することにより抽象化された主に建築物のディテールの映像が、二種の構図の画-中央に位置する縦線によって右と左に分けられているものと、二本の横線によって上中下の三層に分けられるもの-によって構成されている。その映像と共に「上中下右左上中下右左上中下右左、ゴホッゴホッゴホッ」と調子の悪そうな声で、かなり早口で、タイトルにある呪いがマントラのように連続で唱えられる。向かいの壁に架けられたモニターに映る作家が自らの腹を三層の階級として喩え、層をなくすように頑張ってみましょう、と腹を凹まし、「次はどんな、問題がでてきますかね」と問う《この世界の腹隅で》(2017)と並置されることによって、《呪い》の抽象的な画像が階級と政治的立ち位置を象徴していることがわかる。そしてその上中下右左というGPSがいかに制限的であるかを示唆し、その呪いを解くために要される新しい方角への思考を促す。


《いるか》では作家の出身地である兵庫県尼崎の風景-竹谷交番、尼崎城、立ち飲み処、尼崎パレス、ラブホ、灰皿、三和市場、パトカーなど-の映像がテンポよく編集され、ナレーションが「いるか」「いるか」「いるか」と問う。定期的にしながわ水族館のイルカショーの映像がオチとして入ってくる。「いるか」のチャントが加速し、定期的に「いらんか」と新しく問う。ダウンタウンが同郷であることを誇りに思う作家による作品がお笑いのような要素を持っているのは想定内なのだが、《呪い》と《いるか》が伊藤高志やジェームズ・ベニングによる往年の構造映画の様式をなぞっているのは驚きであった。脱工業化の時代に、本人曰く「構造的な貧困問題抱えている」住人の多い工業都市尼崎で育った松田にとって、「いるかいらんか」と生存理由を弁護せよとばかりに突きつけられる質問は切実であると考えられる。生産性や効率性、そしてそれらが要する秩序と管理-そこに違和感を感じたり、ハマりたくても弾き出されたり、霞を食って生きたいと思っている私のような者たちにとって本展は不可欠であり、町の用途が複数あることを示す展示が市民ギャラリーで開催されていることは祝福されるべきである。詩人チャールズ・ブコウスキーは「危険なことをスタイルを持って行うことこそがアートである」と詠ったが、その言葉は本展の作品、キューレーション共に当てはまる。ギャラリーを後にしたスケーターや路上生活者は出口目の前の5メートル以上もある、アームレストのない、ツルッツルの大理石のベンチを見逃すはずがない。

「あざみ野コンテンポラリー vol.17 ニュータウン、インターフェアレンス 都市とわたしたちの関係」は2026年10月10日(土)から11月3日(火・祝)まで横浜市民ギャラリーあざみ野にて開催中。
