カルティエ現代美術財団と森美術館の共催「ロン・ミュエク」展はパリ、ミラノ、ソウルに続く巡回展である。ミュエクは操り人形の制作会社を運営する親に育てられ、20代にして、テレビ番組『セサミ・ストリート』で知られるジム・ヘンソン監督、デヴィッド・ボウイ主演の『ラビリンス』(1986)において、自身のデザインした人形・キャラクターを製作し、演じている。その人形界のエリートが現代美術作家として名が通るようになったのは10年後、YBA(Young British Artists)を流行させたコレクション展「センセーション——サーチ・コレクションの若きイギリスの作家たち」(1997)への参加以来である。ミュエクの作品は具象的であり、人体を現実とは異なるスケールにおいて精巧に再現することにより、超現実的な世界観を作りだすことで知られている。例えば「センセーション」で展示された作品《Dead Dad》(1996-7)は作家が自分の父の死んだ姿を身長約1mに縮めたものである。

本展覧会のウォール・テキスト曰くそれらの作品群は普遍な内面体験を表しているらしい。個々の作品に纏わる説明文を汲み取ると、それらの作品のイメージは「シュール」や「奇妙」であって、観者に「迫り」、「不穏な」、「謎めいた」雰囲気を作り、「不安」、「違和感」、そして「緊張」を感じさせるというのが本展のメッセージであるが、これほど見所のない展覧会は稀有だ。わずか11点のミュエクによる作品に対して、ミュエクの作業過程を記録したゴーティエ・ドゥブロンドによる16枚の写真と計60分以上の映像が展示されていることも興味深く、TikTokなどでのプロセスビデオの流行と関係があるように思える。

まず普遍的とあるが、本展に象徴されているのは白人だけである。いうまでもなく日本に於いて白人はマイノリティーであり、特定な白人の経験を普遍とするのは典型的な白人中心主義である上に日本という場に対する関心の無さを感じさせる。ミュエクの作家性の起源といえる、《Dead Dad》に関しても自分の父を自分より小さく、そして死体として象徴する行為がセンセーショナルであるという事すら、普遍的ではなく、ジークムント・フロイトの提示した男性の子供が経験するエディプス・コンプレックスに強く関係しており、さらに言えばフロイトの理論は父権制社会を前提としているので、普遍的では決してない。

だが展示作品が象徴する不安、違和感、緊張といったネガティヴな感情はフェミニスト・ケア論で語られているように脆弱性こそが人類に共通しているコンディションである故、普遍的なのかもしれない。そしてミュエクの作品が表す「思春期の危うさ」(《ゴースト》(1998/2014)、《若いカップル》(2013))、「他者との向き合い」(《チキン・マン》(2019))、「孤独・老い」(《イン・ベッド》(2005)《買い物中の女》(2013)《エンジェル》(1997)《ダーク・プレイス》(2018)《舟の中の男》(2002)、《マスクII》(2002))、そして「死」(《マス》(2016-7))といったテーマも多くの人が共感できるものであろうとは思う。しかしそれらを表現するイメージや状況はあまりにも陳腐だ。これらの作品の世界では少女は脆弱性を象徴し、大人の女性はケア労働を果たし、男性は内面的思考に耽る。女性は買い物やベッドといった現実的な世界に止まり、男性は羽を生やしたり、裸で舟に乗ったりと神話的なニュアンスを持った状況に置かれる。ここで普遍的とされているのは白人男性の経験を重視したジェンダー・バイナリーであり、男性のみが日常を超越できる主体として描かれている。

ミュエクの作品からは日常をずらす意図が強く感じられる。コンテンポラリー・アートの重要な役割の一つは現状を問うことだと言えるが、白人男性の経験を普遍とするのは現状維持であり、文字通り保守的だ。私が展覧会で見た観者達は精密なディテールに引き込まれ、巧妙な技術を楽しんでいたが、作品によって現実を疑問視させられてはいなかったように思う。作品に迫れているという感じも見受けられなかった。どちらかというと来場者が気にしていたのは、作品の写真を撮る時にどう他者を写し込まないか、という点ぐらいだったのではないか。これらの作品は観者に少しの「不安」、も「違和感」も「緊張」も感じさせず、スマートフォンでの写真撮影を通した極めて安易な消費を促進していた。

ミュエクの狙いにはフロイトにおける「unheimlich」(不気味なもの) のような効果の及ぼしがあると推測するが、不気味なものとは自我が抑圧した経験や記憶の回帰を起こすものであり、その回帰は自我を根幹や土台から脅かすものでなくては不気味なものには成り得ない。この展示ではメメント・モリ的な役割の百点の巨大な頭蓋骨を集めたインスタレーション《マス》さえ漂白されており、そこから生臭さや恐ろしさは完全削除されている。脱カタコンベ化されたインスタレーションに於いてメメント・モリ本来の、観者を誰も逃れられない死と向き合わせる効果は、頭蓋骨の拡大された数とスケールと反対に減少し、本作品はただのインスタグラム撮影の背景と化していた。
同世代のアート勢を痛快に風刺した小説『大いなる酒宴』(1938)の序文で、ルネ・ドーマルは言語には目的と必然性が不可欠であり、それらなしでは言語は混乱へと堕ち、その混乱が耐えがたくなると人は「普遍的で、明快で、空っぽな言葉を発明し、生きられた経験という黄金に保証されることのない贋金のような語彙で話しはじめる」と書いているが、この展示にあるのは後方の不毛な、浄化された共通語でしかない。
「ロン・ミュエク」は9月23日(水)まで森美術館で開催。
