「Thierrée / Daifu」は東京日仏学院で開催された、ヴィクトワール・ティエレと題府基之による二人展である。本稿では、この展示を基に身体の不在と無人兵器の関係について、近年のイスラエル、米国、そしてロシアの軍事動向を踏まえて考察する。題府基之は東京を拠点とする写真家であり、ヴィクトワール・ティエレはパリ在住のアーティストである。前者は影を捉えたカラー写真シリーズ『Untitled (Shadow)』から四点を、後者は六点のスカルプチャーと5分未満の映像作品『UFO』を展示している。プレスリリースによれば、展示作品に共通する要素は「身体の不在」である。確かに両者の作品には、人間ないし非人間動物は表象されていない。しかしながら、両者の作品が体現しているのは純粋な不在ではなく、むしろ痕跡である。なお、両者の作品と不在との関係には劇的な差異があり、題府の作品では、不在であるからこそ、以前そこにあった、あるいは以後あり得る存在が示唆されている。一方、ティエレの作品は、より悲観的に、動物的存在が抹消される傾向を暗示している。
家族やペット、物に溢れ、コンビニにまみれた実家の生活空間を13年間フラッシュ撮影してきた題府の写真を知る多くの観者にとって、静けさを感じさせる今回の展示作品は意外に映るかもしれない。しかし題府は昨年、銀座メゾンエルメスで開催されたグループ展でも、放尿の痕跡──実際には作家自身が掛けた水跡──を写したように見えるシリーズ『Untitled (Pee)』の作品を展示しており、これら二つの展示からは、作家の初期作品とは一線を画そうとする志向が読み取られる。尿というモチーフについては、抽象表現主義の画家──嶋本昭三やジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングを想起させる──から着想を得ており、今回のモチーフである影についても、日常的風景を美術へと昇華しようと試みている点で、極めてモダニスト的な観点から制作された作品群であると言える。

四点の写真のうち三点はいずれもホワイトバランスによる色調整が施されておらず、極端にシアン寄りの色合いとなっている。そのうち二点は、変哲もない住宅街の路上において、色褪せた壁に幾何学模様を落とす影を捉えている。また一枚では、フレーム一杯に柵が写し込まれ、その奥の布地のような物体に影が落とされており、抽象的であると同時に、より絵画的な画面を形成している。
このシリーズについて、題府はインスタグラム上で次のようにコメントしている(原文は英語)──「最近わたしは朝散歩するようにしている。要するに暇なのだろう。途中で時間潰しに写真を撮ることがある……朝方の光は[昼間のものとは]少し違う。ダイエットのために歩き始めたのだが、一時間半歩くと腹が減り、吉野家で朝定を食べてしまう。」
あたかも光度や光彩ついて真面目に語るのが恥ずかしそうであるが、本人も定食も写真には写っておらず、そこには色と光の加減しか無い。極端にシアンやマゼンタ寄りの色調とともに、そこに写された朝方の光はどこか叙情的である。

ティエレのヴィデオ作品『UFO』(2016)に映っているのは、ロッキード社によって開発された敵に探知されにくいステルス機のようにも見える──云々と書きたいところだが、実際にはどう見ても赤外線カメラで撮影された凧である。その軍事用カメラによって記録された、凧が8の字を描く動作は、まるで蝙蝠の飛行のようだ。
動物を模倣したテクノロジーという主題は、同作家の彫刻作品にも通底している。たとえば、研磨鋼で作られた12の三角形によって構成され、その形状やアフリカの仮面の引用によって立体派を彷彿とさせる(あるいはリジア・クラークの『動物』シリーズにも通じる)『Hunter mask』(2018)が挙げられる。また、セラミック繊維を用いて制作され、天井から多数の黒い紐状の繊維が束となって鋼製の筒の中から垂れ下がる『Tail #1 (Dripping)』『Tail #2 (Dripping)』(ともに2025)にも、同様の傾向を見出すことができる。


これらの作品は、人間が非人間動物を装うための道具として提示されているため、「フェティッシュ」という言葉が持つ、呪物崇拝と偏愛の両義性を同時に暗示している。『Lashes』(2023)では、同じ素材が床に置かれた鋼製の支持体から放出されている。ここでは、一方では「まつ毛」を、他方では鞭の柔らかい部分、さらには鞭で打つ行為そのものを指す単語がタイトルに用いられており、フェティッシュ的なニュアンスの仄めかしをさらに継続している。

これらの作品に用いられているマテリアルを考察すると、そこに暗示された暴力は、フェティッシュ的、あるいはサディスティックな性行為のレベルから、国家規模の戦争的暴力へとエスカレートしていく。3M社によれば、セラミック繊維は軽量で柔軟性に優れながらも高い耐熱性能を備えており、「航空機の配線絶縁、エンジン防火壁、宇宙船の微小隕石シールドなど、ミッションクリティカルな用途で卓越した性能を発揮」する、「軍事分野で広く使用されている先進素材」である。ヴィデオ作品『UFO』から連想される不在、軍事、飛行機という連鎖は、軍事用無人航空機を想起させる。そして現時点において、軍事用無人航空機、いわゆる「ドローン」を、米国、イスラエル、ロシアの軍事動向を抜きにして考えることは難しい。
アメリカによるイランへの攻撃には、安価な自爆ドローン「Lucas」が投入され、ウクライナでは、イラン製Shahed型に基づくドローン「Geran」が月5,000機の規模でロシアから主要都市へ飛来している。またイスラエルはドローンを駆使し、ガザ地区で7万人以上のパレスチナ人を殺害している。さらに日本の防衛省も、その種のドローンの導入を検討している。
『Lashes』(2023)と向かい合うように壁面に展示された題府の『Untitled (Shadow)』(2026)は、おそらく子供のために壁に描かれた、飛び跳ねて遊ぶ三体の人影を捉えた作品である。しかし、そのうち一体の胸部には排水口が埋め込まれており、さらにそこから漏れ出た排水によるシミが画面に刻まれている。これら二作品の並置は、そこに暗示された暴力が、ついには殺害へと激化していく様相をも象徴している。

ここで考慮すべきなのは、二つの「不在化」である。一つは、ドローンが一般市民を含む人間を「不在化」──すなわち撲滅する──ために駆使されているという事実である。もう一つは、戦闘行為それ自体が無人化されている、すなわち人間不在のものとなっている現象である。
科学哲学者グレゴワール・シャマユーが著書『ドローンの哲学』において論じている通り、ドローンは戦闘行為を単なる殺害行為へと変質させる。非対称的で、一方にしか攻撃の可能性を与えないこの機械は、殺害をより効率化し、戦闘から脆弱性を排除する。そして、戦争遂行のハードルを下げることによって、技術的側面だけでなく、政治哲学的・倫理的にも重大な影響を生み出している。
さて、ドローンが脅かしているのは国際人道法である。同法は、民間人を保護するため1949年に成立したジュネーヴ諸条約を中核としており、人間とその「ウェルビーイング」を中心に据えるという点で、題府の作品にも仄めかされるモダニズム的思考に通じている。
一方で、ティエレの作品が示唆しているのは、冷え切ったポストヒューマン的、あるいはポストモダン的な感覚である。先に私は、サディスティックな(性)行為における暴力と、国家レベルの戦闘的暴力とを区別するような書き方をした。しかしドローン時代において、戦闘的暴力それ自体が倒錯した快楽を孕んでいることは、近年のホワイトハウスの言動や、パレスチナ人に対する死刑適用の拡大を求める法案の可決を歓喜するイスラエルの議員たちの姿からも明白である。
東京郊外の、いつもとは少し異なる朝の光とは対照的に、私たちはいま、極めて暗い時代を生きているのである。
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「Thierrée / Daifu」ヴィクトワール・ティエレ、題府基之 は2026年3月19日(木)-4月26日(日)まで東京日仏学院で開催された。
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