齢88となるフランスの巨匠、ダニエル・ビュレンの個展がスカイザバスハウスで開催中だ。同展で披露された《Prismes et mirroirs : Haut-relief (プリズムと鏡 :高浮き彫り)》(2025)はビュレンが10年ほど前から手がけているシリーズであり、日本では初公開となる。
作品の基盤を成すのは、鏡面仕上げを施された巨大な円形の支持体である。円形にはビュレンが「プリズム」と呼ぶ直角三角形の立体が前面に取り付けられている。プリズムは鏡面に映り込んで、菱形の立方体が宙に浮いているような錯覚をもたらす。また、作品の前で右に左にと移動すれば、視線の角度に応じてそれぞれのプリズムは立体感の度合いを変化させる。とりわけ新鮮な体験をもたらすのは、鏡面を介してスカイザバスハウスの建築構造が客観的に知覚されることだ。私たちは鏡のなかに和風建築の切妻屋根や太い梁が映り込むのを発見し、作品を成立させる場の固有性を意識する。

展示風景、SCAI THE BATHHOUSE、東京、2026
写真:表恒匡 協力:SCAI THE BATHHOUSE

展示風景、SCAI THE BATHHOUSE、東京、2026
写真:表恒匡 協力:SCAI THE BATHHOUSE
幾度も語られてきた通り、ビュレンは自身の作品がin situ(その場でしか成立しない)とsitue(移動可能であること)の両極を行き来することを望んだ。では、鏡面から「その場」の風景を取り込む「プリズムと鏡 :高浮き彫り」についてはどうか。直径2.6mにも及ぶ円形の支持体は鑑賞者の視界をゆうに包み込むが、じつは円形は3つのパーツに分解可能で、組み立ても比較的容易だという。つまり、見た目に反して軽やかな構造をもった汎用性の高いインスタレーションなのだ。鑑賞者の身体の移動、そして作品自体の移動可能性というふうに、本作は異なるレベルの変動を促すものと言えるだろう。 加えて興味深いのは、アルミニウム加工された鏡面が、わずかにくぐもった質感を持っていることである。クリアに透き通らないぶん、鏡面特有のきつい反射が少し和らげられ、鑑賞者の視線が自然に鏡のなかに引き込まれるのだ。また、鏡面のきわに近づくほどにわずかな像の歪みが生じていることにも注目したい。「プリズムと鏡 :高浮き彫り」シリーズには支持体となる鏡面が正方形のものがあるが、こうした歪みの発生は円形の鏡面ならではの事態と想像される。
むろん、鏡像の歪みは作品それ自体の欠点ではない。鏡を設置する壁面が完全な平らでない場合、鏡像には歪みが生じやすくなるものだからだ。そして、建物の壁面というのは人が思うほどに完全な水平面ではない。鏡像の歪みはむしろ、鑑賞者が「鏡と壁面」の関係性に気づくためのきっかけと見做すべきだろう。換言すればそれは、作品が展示される環境の特異性、建築構造が孕む微細な偏差に知覚が及ぶということである。「純粋視覚性」を追及するフォーマリズム絵画やミニマル・アートの類は、作品の展示される場所が作品の見え方に悪影響を及ぼさないニュートラルな空間であることを望んだが、ビュレンのインスタレーションはむしろニュートラルとされる空間のノイズをも歓迎しているかに思われる。

展示風景、SCAI THE BATHHOUSE、東京、2026
写真:表恒匡 協力:SCAI THE BATHHOUSE
ところで、ビュレンが「視覚の道具」と呼ぶ、彼のトレードマークとも言うべきストライプは今回の作品でどのような役割を果たしているだろうか。ビュレン作品で継続的に採用されてきた8.7cm幅のストライプは今回も健在である。ただし、ストライプが施されているのはプリズムの側面のみだ。鏡面に真正面から対峙すればストライプは視界の脇に追いやられて細くなり、その存在感を後退させる。鏡面に対して斜方向に立てば、ストライプは強いアクセントとなって目に飛び込んでくる。ビュレンにとってストライプとは、単にオプティカルな機能をもつだけでなく作家性を象徴するアイコンでもあるはずだが、今回のストライプは作家のアイデンティティを強めもすれば弱めもするという両義的な在り様だった。これは、「ビュレンといえばストライプ」というステロタイプを軽やかにアレンジする手つきといえるだろう。
ストライプとは、原理的に無限の延長を生み出しうるパターンである。図と地の区別がなく明確な始まりと終わりを持たないストライプは、固定化・安定化から絶えず逃れようとする自由の象徴とも解釈できる。ストライプが「視覚の道具」のみならず「制度批判の道具」としての意味合いをもつのは、これまでビュレンが美術館や公共空間をストライプで覆う仕事を展開してきたことからも明らかなのではないか。1971年の「グッゲンハイム国際展」で美術館の吹き抜けに高さ20mの巨大な垂れ幕を展示した際は、「作品の見え方を阻害する」と他の出品作家のクレームを受けて作品が撤去されながらも、美術館という制度的空間が必ずしも「中立的な作品の見え方」を保証する場ではないことを作品を通じて暴露したのだった。

展示風景、SCAI THE BATHHOUSE、東京、2026
写真:表恒匡 協力:SCAI THE BATHHOUSE
「プリズムと鏡 :高浮き彫り」のようなシリーズは、ビュレンの作品のなかでも制度批判的な側面が希薄であるように見える。ともすれば、オプティカルな体験の快楽に奉仕しているとの誤解も受けるだろう。しかし、プリズムの側面でなりをひそめるストライプがもつ侵襲的な作用について、私たちは制度批判とは別の次元から思考することができる。たとえば、側面というサブ的なポジションから周辺視野へと働きかける作用が思いがけず影響力をもつことについて。あるいは、鏡面を介して実体と虚像を滑らかにつなぐ蝶番的な役割を果たしていることについて。 個展タイトルに使われたThird Eyeは「第三の目」を意味する。鑑賞者の身体の前方だけでなく後方の景色も見させる合わせ鏡の構造が「第三の目」をもつかのような感覚をもたらすためだ。現代のテクノロジーは360度の景色を体験させるVR動画なども生み出したが、人間の自然な視覚に即してものの見え方を拡張するビュレン作品のような経験は、意外と他に例がないのではないか。寛容さすら感じさせる空間設計も含め、巨匠の柔軟な制作態度を感じさせる個展であった。
ダニエル・ビュレン「Third Eye, situated works – 知覚の拡張—そこにある眼差し」は2026年3月17日(火) – 5月16日(土) まで、SCAI THE BATHHOUSE で開催。また、SCAI PIRAMIDE では 前期:5月14日(木)- 7月18日(土)後期:7月23日(木)- 9月19日(土)に渡り、ダニエル・ビュレン「Situated Works 1966-2013」が開催される。
中島水緒:美術批評。主な近年の執筆に「前衛・政治・身体──未来派とイタリア・ファシズムのスポーツ戦略」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』、EOS ART BOOKS、2020)、「無為を表象する──セーヌ川からジョルジュ・スーラへ流れる絵画の(非)政治学」(『美術手帖』2022年7月号)など。
