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ユルゲン・ハーバーマスと分断の論理

Giuseppe Bottani, Athena appearing to Odysseus to reveal the Island of Ithaca, c. 1800s, oil on canvas, 29 × 37 cm. Public domain

このほど亡くなったドイツの哲学者は、二つに分断されていく近代世界の中で苦闘し続けた。

フランクフルト学派の問題意識をあえて単純化して言えば、オデュッセウスがイタケを離れたその瞬間から、西洋文明はすでに、コンゴで繰り広げられた殺戮やダッハウの強制収容所へと連なる歴史を歩んでいたのかもしれない。テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』(1947年)(日本語訳 新版 2007年)で描き出したのは、人間と世界との関係が、しだいに機能的で道具的なものへと変質していく過程だった。アドルノとホルクハイマーが論じたように、あらゆるものが数値化され、測定され、内面や自己省察さえ顧みられなくなった社会に私たちが生きているのだとすれば、それに抗いうるものは何か。先日96歳で亡くなったユルゲン・ハーバーマスの哲学は、その問いに一つの道筋を示そうとしたものだった。その思想は、自らの歴史に対する視野の狭さを免れず、それでもなおその歴史を問い続けてきたヨーロッパ哲学の大きな伝統の一つの到達点でもあった。そして、彼の死はまた、そうした時代に終わりを告げることとなった。

ハーバーマスの初期の思想は、アドルノとホルクハイマーの影のもとで形成されたが、やがて若きハーバーマスと両者のあいだには亀裂が生じる。師たちには、彼がが左翼の学生運動に肩入れしすぎていると映っていたためである。もっとも、ハーバーマスを生粋の急進派として語ることもできない。彼の父はナチス時代に地方行政に携わり、1944年にハーバーマス自身にも召集がかかるまで、息子をヒトラーユーゲントに入れようと奔走していた。社会研究所、すなわちフランクフルト学派で、アドルノが後継者として望んでいたのも、ハーバーマスではなく同世代のラルフ・ダーレンドルフだった。ダーレンドルフは15歳のとき、反ファシズム運動に関わったことで収容所に送られていた。だが1960年代に入ると、学生運動に対する懐疑や、左翼による議会外の暴力への警戒という点で、ハーバーマスはむしろアドルノと歩調を合わせるようになる。ハーバーマスが本当に重要だと考えていたのは、ファシズムの亡霊がなお消えないなかで、アメリカの軍事力によって成立した自由民主主義の土台を固めることだった。

ハーバーマスの『公共性の構造転換』(1962年)(日本語訳 初版 1973年、第2版 1994年)は、第四の権力としてのメディアと、識字が社会に広く行き渡っていく過程、そしてそれらが資本主義の影響のもとでいかに損なわれていったかを、社会史と哲学の双方から分析した著作だった。少なくともこの時期のハーバーマスは、「コミュニケーション的理性」と呼ばれる概念を発展させることで、資本主義的近代の行き詰まった論理に対するもう一つの道筋を示そうとしていた。それは、ヨーロッパを破局へと導いた道具的理性に対抗するものでもあった。社会運動や家族、学校、自発的な結社のなかに息づく、支配を伴わない関係のあり方、つまり、市場の論理にのみ込まれまいとする生活世界(レーベンスヴェルト)を指していた。レオン・トロツキーのようなマルクス主義者は、社会主義のもとで政治は消滅し、社会のあり方をめぐる対立も、やがて審美的論争へと転化するとと考えていた。これに対してハーバーマスは、そうした対立を媒介する営みは、いかなる社会においても不可避であると考えていた。

しかし、近代社会はあまりにも複雑で、その根本にある対立を一つにまとめようとする試みは説得力を欠いていた。友情や共同体を支える道徳的な論理はたしかに強い。だが、それだけでは中央銀行のような制度は成り立たない。近代には人を疎外する側面がある一方で、ある種の重圧から解き放つ面もあった。ハーバーマスは1999年のエッセイで、この時代には「過重な負担を背負わされた個人の意志や知性を、その重圧からいくらか解き放つ」働きもあると書いている。

ここで浮かび上がるのは、分断されたままであることと折り合いをつけた、二重に分裂した世界である。ハーバーマスは1992年の著書『事実性と妥当性』(日本語訳版 2002年刊行)において、まさにこの近代に固有の状態を擁護しようとした。彼によれば、法や制度は「事実」を成すが、そのあり方を最終的に形づくるのは「妥当性」である。マルクス主義者──あるいは、多少なりとも懐疑な思考を持つ者にとって、法が権力関係の産物ではないとする考えは、あまりに単純すぎる見方と受け取られただろう。だがハーバーマスが示そうとしたのは、法制度の中立性をファシズムの立場から批判したナチスの法学者カール・シュミットとは異なる仕方で、法と国家の起源を捉え直すことだった。彼にとって、そうしたシュミット的な発想は、疑似的な現実主義にすぎなかった。とはいえ、社会の全体像を二つの領域に分けて捉えるハーバーマスのそうした構図もまた、本当の意味での現実主義を捉える可能性を狭めていた。貨幣と権力の領域は、生活世界から立ち上がる連帯や価値とは切り分けられ、自律的に作動するシステムとして捉えられていた。

Jürgen Habermas, Munich School of Philosophy, 2008. Photo: Wolfram Huke|CC BY-SA 3.0

では、アドルノとホルクハイマーから受け継いだ批判理論という企ては、どこへ行き着いたのか。結局のところ、それはリベラリズムからさほど遠くない位置にあった。1980年代を通じて、ハーバーマスはジョン・ロールズとたびたび論争を交わしたが、率直にいってそれはほとんど無害なもので、両者の違いも実質的な対立というより、議論の順序や手続きに関わるものだった。その一方で、ハーバーマスの思考においては、事実と価値とがますます切り離されていった。そして、経済は民衆の意思によって動かせる領域だという考えを手放すにつれ、その哲学はしだいに現実から乖離していった。ペリー・アンダーソンの言葉を借りれば、その結果生まれたのは、「現実世界を正確に記述する責任にも、よりよい世界に向けた批判的提案を示す責任にも、いずれにも応えない理論」であった。

ハーバーマスの思想にこれほど大きな盲点が見られる以上、それをどう受けとめるべきかという問いは避けがたい問題となる。ここではおそらく、政治的な視点よりも精神分析的な視点のほうが、より多くを明らかにしてくれるだろう。ハーバーマスの父は、ラインラント北部グンマースバッハの商工会議所で幹部を務めたプロテスタントで、1938年には志願して従軍している。ハーバーマスは、そうした父のもとに育ち、その最盛期にあったヨーロッパのブルジョワ社会の産物でもあった。彼はそうした文化が生み出したものに強い違和感を抱きながらも、その理想化された像の一部には、なお深く結びついていたのかもしれない。こうした生い立ちとの結びつきが、見えにくいかたちではあっても、大衆政治に対するハーバーマスの慎重な姿勢や、後年における制度への信頼につながっていたのかもしれない。

1967年、ハーバーマスは学生運動の急進派であったルディ・ドゥチュケとハンス・ユルゲン・クラールを「左翼ファシズム」であるとして非難し、社会主義左派との関係に亀裂を生んだ。資本主義に対する本格的な批判や対抗が生まれうる生活世界からみずから距離を取るにつれ、ハーバーマスにとってリベラリズムの枠組みを超えて資本主義を捉えることは、しだいに困難になっていった。彼の思考の拠りどころであり続けたのはファシズムの歴史的記憶であったが、そのために、リベラリズムが日常的な制度の働きのなかで世界に及ぼしうる暴力には、ほとんど目が向けられることはなかった。

2023年11月、ハーバーマスはイスラエルによるガザでの戦争を20世紀の惨禍と同列に論じることに警鐘を鳴らす公開書簡に名を連ねた。署名者には、ニコル・ダイテルホフ、ライナー・フォルスト、クラウス・ギュンターらも含まれていた。ハーバーマスはそこで、イスラエルの行為をジェノサイドの意図にもとづくものと見なすなら、「判断の基準は完全に崩れてしまう」と記している。ここにもまた、事実と妥当性を切り分ける、あの不安定な区別があらわれている。パレスチナ人が大量に殺害され、その多くが子どもであったという事実があるにもかかわらず、それでもなお前面に押し出されるのは、「判断の基準」を保つことである。しかもそれは、リベラリズムの世界観を支える歴史理解に沿ったものとして提示されている。少なくともこの書簡は、事実の重みに向き合うよりも、判断の枠組みを守ることを優先しているように見える。こうした切り分けは、ハーバーマス晩年の議論において、マルクス主義的な現実感覚の名残さえ薄れていったことを示しているようにも思われる。

(翻訳=野坂賢利)

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