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ピエール・ユイグと
女性表象をめぐる問題

Liminals (still), 2025. © the artist / VG Bild-Kunst, Bonn, 2026. Courtesy the artist, LAS Art Foundation, Berlin and Hartwig Art Foundation, Amsterdam

AIを用いて女性の画像を裸体化する行為が蔓延するなか、フランスのアーティスト、ピエール・ユイグが提示する非人間的な女性アバターは、とりわけ強い嫌悪感を喚起する。

享楽を極めた伝説のクラブとして知られる、ベルリンの「ベルクハイン」が入居する旧発電所。その一角にある洞窟のような大空間「ハレ・アム・ベルクハイン」は、実用的な観点から見て、映像インスタレーションを展示するには理にかなった場所だ。暗室を作り出せるうえ、ピエール・ユイグが本作《Liminals》(2026年)で試みているように、そびえ立つコンクリートの壁面に巨大な映像を投影できるからだ。場所の特性を除けば、このフランスのアーティストがここで展開する作品は一見、快楽主義の極みとも言えるクラブカルチャーとは無縁に思えるかもしれない。むしろ、生成AIを用いることで、「量子は複数の状態、時間、場所に同時に存在し得る」という科学的仮説に対する明快な視覚的アナロジーを見出そうとする試みのように映る(念のため言っておくが、筆者は物理学者ではない)。とはいえ、展覧会の広報資料には、本作の狙いは鑑賞者を「時間や空間の外側にある領域、すなわち始まりも終わりもなく、内も外もなく、ただ絶え間なく続く物質の舞踏だけがあり、すべての瞬間がかりそめのものであるような揺らぎの中にある領域」に身を置かせることにある、というユイグの言葉が引用されている。なるほど、これはいかにもベルクハイン的だ。

会場に入ると、まずは漆黒の闇の中を手探りで進むことになる。やがて行き着くのは、この空間における唯一の光源、入り口に背を向けた壁面に投影されたモノクロ(あるいはそれに近い色調の)CGI映像だ。おそらく映像の途中でたどり着くことになるだろうが、問題はない。途方もなく恐ろしい不確かさを突きつけるような光景が延々と繰り返されているのであろうことは、見ればすぐにわかる。顔のない全裸の女性が目を覚ます。顔のパーツはデジタル処理で抉り取られ、深淵のように真っ暗な空洞と化している。彼女は溶岩のような地表を持つ異星の風景の中をよろめき歩く。彼女がそこで何をしているのか、見ている我々と同様、彼女自身もわかっていないらしい。それでも果敢に、手探りで自身の身体や環境を試そうとする。頭や体を地面にこすりつけ、一見すると強固なその地表に意外にも穴を穿つことができると気づき、最後には穴をいくつも穿ち疲れて倒れ込むのだ。夜の場面もあれば、ほとんど光の差さない灰色の白昼の場面もある。時折、湾曲した広大な海岸線と黒い海を見下ろす俯瞰の視点が挿入されるが、その海の輪郭は、女性の顔にぽっかりと空いた穴の形と符号するように見える。一定の間隔で巨大な地鳴りが轟くと、風景は高速で溶解し、変容していく。すると、どうやら先ほどとは別の現実だということらしい世界に女性が再び姿を現す。以前の場所と絶望的なまでに酷似したその空間で、彼女はまたしても、あてどなく周囲を探り続けるのだ。なかでも彼女が横に突き出た岩に接近し、自身の顔の空洞にその岩を挿入するシーンは強烈で、脳裏に焼きついて離れない。

Liminals (still), 2025. © the artist / VG Bild-Kunst, Bonn, 2026. Courtesy the artist, LAS Art Foundation, Berlin and Hartwig Art Foundation, Amsterdam

好意的に解釈すれば、これは理解しがたい事象を文字通り「頭」で捉えようとする試みの表れなのかもしれない。「空間畏怖」概念をモデル化したような、量子論が示唆する冷徹きわまりない無限の世界に目覚めてしまったという状況のメタファーとして。だが、そうした解釈を試みるよりも前に、ひとつの疑念が浮かぶはずだ。なぜユイグは(フランスの映画監督にありがちな常套的な手法にならい)、わざわざスタイルのよい若い女性をアバターに起用し、裸にしたのか。モーションキャプチャーによる映像が、その乳房や陰毛を執拗に舐めるように映し出すのはなぜか。なぜ彼女から顔を奪って非人間化し、あまつさえ露骨な「挿入」のイメージまで付け加えたのか。確かに、そこにエロティシズムは微塵も存在しない。殺伐として不可解な空気感、斑点や痣(あざ)の浮かぶ女性の肌、そしてインダストリアルなサウンドトラック。これらが相まって、本作はデヴィッド・リンチの映画におけるセックスシーンのごとく、官能性からは程遠い(リンチ特有の、恐怖を孕んだネオ・シュルレアリスムが本作の参照点であることは疑いようがない)。その真意は推測の域を出ないものの、ユイグがポストヒューマニズムを表現する手段として非人間化された女性のフォルムを選択したのは、これが初めてではない。たとえば頭部が生きたミツバチの巣になっている彫刻作品《Untilled (Liegender Frauenakt)》(2012年)や、ウェイトレス姿の猿が登場する映像作品《Human Mask》(2014年)がその例だ。だが今回の作品には、とりわけ強い嫌悪感を禁じ得ない。AIを用いて女性を仮想的に裸体化する行為が蔓延する今の時代においてはなおさらだ。

さらに言えば、《Liminals》が抱える問題は、コンセプトの底が見えるのがあまりに早すぎることにある。この映像がAIによって駆動され、多分に偶然性に左右されていることには、すぐに見当がつくだろう。2024年からこれまでに発表された過去のバージョンでは、周囲の気温や鑑賞者の動きといった入力データによってアバターの行動が決定されると明記されていた。今回の展示では、その点についての言及はない。だが、内部の仕掛けがどうあれ、《Liminals》が最先端の危ういテクノロジーを駆使し、本来であれば視覚化を拒むような事象を可視化しようとしているのは明らかだ。解説によれば、それは「無限の可能性が単一の現実へと収束する」状況であり、人間と環境、無生物、主体性、そして超高速演算の境界が消失する事態なのだという。結果として、ユイグの過去の傑作が備えていた、ある種幻視的な異化効果は本作にも少なからず漂っており、しばらくは鑑賞者の心を捉えて離さない。しかし、やがて単なる技術のデモンストレーションのように感じられてくる。しばらくすると、ここではないどこか別の場所にいたいと願うようになるかもしれない。そして科学の教えるところによれば、あなたはおそらく、すでに「別の場所」に存在しているのである。

(翻訳=Art Translators Collective)


ピエール・ユイグ「Liminals」展はハレ・アム・ベルクハイン(ベルリン)にて、LAS Art Foundationにより開催された。

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