第15回上海ビエンナーレは、「花は蜂の声を聞くのか?」と問いかける。その答えは、意味をもつものと、意味づけを逃れるものとのあいだに、ひそんでいるのかもしれない。
上海当代芸術博物館(PSA)の広大なアトリウムに足を踏み入れると、かつて石炭火力発電所だった建物の吹き抜けに、黄色い造花が雲のように浮かんでいる。同じ花が地面にも散り敷かれ、まるで秋の落ち葉のように積もっている。それは全体として美しい光景である。だが同時に、上海の価値観の変化を映すしるしでもある。そして、あらゆるしるしや記号がそうであるように、そこにはプロパガンダの気配もほのかに漂う。実際、このビエンナーレに満ちているのもまた、そうしたしるしや象徴である。本展は「何が聞き、何が聞かれうるのか」をめぐるテーマを軸にしながら、時に、より複雑な関係性が浮かび上がる場面もあった。
黄色い花々は、プエルトリコを拠点とするアローラ&カルサディージャによる《Phantom Forest》(2025年)の一部である。幹も根も持たない花は、植物の亡霊のようでもある。そうした印象は、花々とは対照的な旧発電所の要塞めいた建築のなかで、いっそう際立つ。建物は密閉された容器のように閉ざされ、芸術であれ権力であれ、内側に収められたものを外界から守るようにつくられているような雰囲気を醸し出す。花粉もなく、アレルギーの心配もない、どこかディズニーじみた仮想の自然であり、そこにあるのは花を咲かせた木そのものではなく、木のイメージにすぎない。それは一種の広告のようであると同時に、絶好の自撮りスポットでもある。筆者が訪れたときには、ひとりで来た人も家族連れの人々も花の下に集まり、まるで見えない蜜に引き寄せられた蜂のように、スマートフォンを向け、夢中で写真を撮り続けていた。偽物の自然のただなかで、自分たちがたしかにそこにいたことを示す証拠、いわば生の証を、必死に集めているかのようである。そしてその証拠をソーシャルメディアで発信することで、彼らは本来ならPSAのマーケティングチームが担うはずの役割まで果たしている。人も物もことごとく動員される現在の世界のあり方もまた、この展覧会の底流をなす、もう一つの主題となっている。

画像提供:アーティスト、Power Station of Art(上海)
この花々の作品にたどり着く前に、来場者にはTrue Honey Companyのマヌカハニーの試供品が手渡される。パッケージには、「ニュージーランドの人里離れた奥地から届いた」蜂蜜であり、展覧会のテーマにちなんだものだと記されている。さらに来場者には、PSAの各階をめぐりながら芸術の糧を集める蜂に自らを重ねてほしいとも促されている。こうした演出は、作為やつくりものめいた印象をいっそう強めるばかりで、なぜその蜂蜜がわざわざニュージーランドから中国へ運ばれてきたのかという疑問も抱かせる。それをグローバル化への批評と見ることもできるかもしれない。だが、実際にはもっと単純に、資本主義そのものにすぎない。あるいは、美術展に足を運んでもらうには、何かしらの餌を差し出さなければならないと認めているようでもある。パッケージには、スクラッチ部分を削ってスキャンすると景品が当たる仕掛けまで付いている。きっとそれも甘いものなのだろう。
冒頭の壁面テキストによれば、この展覧会は「人間と非人間にわたる、異なる知のかたちのあいだを行き来すること」を目指しているという。そこには、世界はいま恐ろしく混迷した場所であり、その不安定さのなかで「芸術は、絶望や倦怠から抜け出すための道筋を示し、新たな生のかたちや感覚的なコミュニケーションの方法を見いだす助けとなる」と記されている。このビエンナーレを見ていると、美術館とは人を鈍らせ、思考を麻痺させる場所なのではないかと思えてくる場面もあるが、ここではむしろ、絶望や倦怠から抜け出すための救いの場として捉え直されている。そうした知のあり方を切り替えていく点で、このビエンナーレはきわめて巧みでもある。アトリウムで人間が蜂として再構成される一方、その先にあるAKI INOMATAの《How to Carve a Sculpture(彫刻のつくりかた)》(2018年―)では、日本の動物園のビーバーが作家の役割を担い、木片をかじる。そこから生まれた形は、その後CNCルーターによって人の身の丈ほどのトーテムとして再現される。さらに、《Into the Island》(2024年)と題されたドキュメンタリー映像には、北京のDnA Design and Architectureの徐甜甜(Xu Tiantian)が登場し、福建省の湄洲島で自然と人間の双方に資するミュージアムを構想しながら、村人や漁業者、海洋生物学者たちと対話を重ねていく。ビエンナーレが掲げるテーマに照らしていえば、この試みは一種の情報収集でもある。たとえ自然そのものが、文字どおり「語る」わけではないとしても。それはいわば、敬意を伴った監視、とでも言うべきものだ。
アトリウムの反対側には、リクリット・ティラヴァニによる巨大なテキスト作品《untitled 2025》(2025年)があり、そこには「THE FORM OF THE FLOWER IS UNKNOWN TO THE SEED(花のかたちは種にはわからない)」と大きく記されている。そこからうかがえるのは、分からないままでいることも、それはそれでよいという見方だろう。現代美術館を訪れる人にとっては、多くの場合、有用な助言だと受け取られるだろう。実際、知の不確かさもまた、PSA全体に波紋のように繰り返し現れる主題の一つとなっている。ここでもまた、その威圧的な建築がもたらす固定的な印象は、いくらかやわらげられている。

画像提供:アーティスト、Power Station of Art(上海)
オーディ・マレーの《To Make Smoke》(2025年)では、セージやスイートグラスなどの薬草を焚く儀礼から生じた炭の痕が、壁面にごく淡く広がっている。その痕は、ほとんどそこにないかのようにも見える。マレーはメティスとクリーにルーツをもち、同じくカナダのシュヴィナイ・アシューナ(イヌイット)や、ブリスベンを拠点とするd Hardingらと並んで、先住民の知や世界との関わり方を想起させる作家の一人である。そうしたかすかな痕跡は、美術制度に根づくホワイトキューブ性を静かに揺るがすとともに、ティラヴァニのテキスト作品が呼び起こした逃走性の感覚をさらに押し広げている。端的に言えば、本作は「何か」と「無」のあいだの絶妙な地点にとどまりながら、ビエンナーレの入口で色濃く漂っていた商品化の匂いを、そっと攪乱している。
チェン・ルオファンの《Dust》(2025年)では、こうした主題が反復され、さらに押し進められている。作品には、武漢の家具工場から集められたおがくず、砂利、砂、ナイロン糸などの廃材が用いられている。添えられたキャプションでは、その工場は不快で非人間的な労働の場として説明されている。そうした廃材は、筋状の層をなす雲のようなかたちに組み上げられ、宙に浮かぶように配置されている。おそらくそれは、入口の花園に対する応答、あるいは反論でもある。一方、Gözde Mimiko Türkkanは、波を描いた20点の、催眠的でどこか狂気じみた赤いアクリル絵画を展示する。いずれも2025年の作品で、それらは地図の等高線や指紋の渦、エネルギーの波、あるいは地層を思わせる。題名も、《Unknowable Waves #8(不可知の波#8)》のような連作的なものから、《Feminist Waves(フェミニストの波)》《Waves of Oppression(抑圧の波)》、さらには《Space Debris and Celestial Bodies Surfing the Atmospheric Waves of Our Planetary Spheres(私たちの惑星圏の大気の波を漂う宇宙ごみと天体)》まで多岐にわたる。この一群の作品にはある種の強迫性があり、全体として見ると、あらゆるものがどこか似通って見え、意味を持つことと意味を失うことの境界ぎりぎりを漂っているようにも思えてくる。そうした感覚は、このビエンナーレ全体にも響いている。美術館のマーケティングチームならまず前面には打ち出さない類いのものだという意味では、そこにはある種の勇気もある。少なくとも、ここに参加する作家たちはそれを示している。

画像提供:作家、Power Station of Art(上海)
フランシス・アリスは、一連の平面作品に添えられたテキストのなかで、「この部屋の作品は何についてのものなのか、と問われた」と書いている。(本展では、壁面テキストの多くに作家自身の言葉が用いられている。)アリスはこう続ける。「それは、私自身もしばしば自分に向ける問いでもある。たしかに、《Fire of Fires》のイメージがふと浮かんだのは、今回のビエンナーレに向けて主任キュレーターのキティ・スコットによる構想文を読んでいたときだった。ひとつの炎が鳥を生み、その鳥が彗星に火を灯し、彗星からはロバが降りてくる。そして最後には、眠りのなかへと逃れていく。これが何についてのものなのか、私にはうまく言葉にできない。けれども、この一連のイメージは、無責任なかたちではあるにせよ、私たちが生きているこの時代に応答しているのかもしれない」。こうした鳥や彗星、ロバの姿は、コラージュや縫い合わせ、彩色を加えた無題のカンヴァス連作の各所に現れる。作品は美術館の壁に掛けられ、ときに壁の角をまたいで配置されながら、少し謎めいた寓話が空間のなかに立ち上がってくるような印象を与える。作家自身のキャプションが示すように、そこでは意味と無意味がたえず隣り合っている。それは見る者を苛立たせるものかもしれないし、あるいは、いま世界が置かれている状況をそのまま映し出しているのかもしれない。もちろん、その両方であることもある。実際、そうしたことは少なくない。

とはいえ、こうした流れのなかでは、世界とより直接的に関わろうとする作品がひときわ強く印象に残る。カンス・ユルドゥランの写真連作《The Dispossessed》(2015―25年)は、その好例である。撮影の舞台となっているのは、トルコのトラブゾン県チャイカラにある、ユルドゥランの母の故郷だ。壁面テキストによれば、その地では、女性が土地や家を所有することは、法律ではなく慣習によって妨げられている。ユルドゥランは、その地で働く女性たちを写し出す一方で、銃を手にした姿など、力を感じさせる場面もとらえている。そこに動物や土地のイメージが重なることで、所有や利得を軸とした序列の外にある、別の結びつきと連帯のかたちが浮かび上がってくる。同様に、ロヒニ・デヴァシャーの4チャンネルの映像作品《One Hundred Thousand Suns》(2023―24年)と、関連するドローイングや版画の連作は、インドのタミル・ナードゥ州にあるコダイカナル太陽観測所の歴史に基づいたものとなっている。太陽物理学研究の重要な拠点であるこの観測所では、125年以上にわたって太陽の像が記録されてきた。本作では、遠く離れた灼熱のガス球である太陽を観測し、理解しようとする営みが、植民地主義の歴史や、人間による地図作成の歴史と絡み合う。そこにはさらに、宇宙──あるいは人の知りえぬもの──を理解しようとする思索、それを記録するメディアの変遷、そして記憶をめぐる問いもまた、人間の領域を超えた広がりのなかで捉えられている。しかも、特定の場所に根ざしながら、知りえないものに迫ろうとする本作の探究は、Gözde Mimiko Türkkanの波や、アリスが自らの寓話を読み解こうとする身ぶりのような、より抽象的な表現に現実的な足場を与え、それらを私たちの日常の空間へと引き寄せている。そこにあるのは、どれほど秩序立てようとしてもなお少し雑然としていて、それでも否応なくそこにある日常である。
(翻訳=野坂賢利)
第15回上海ビエンナーレ「Does the flower hear the bee?」は、Power Station of Art(PSA、上海)にて、3月31日まで開催された。
