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世界の不条理──私たち(の時代の美術)が望むものは/一人の手

松井智惠 《LABOUR 》シリーズ 展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)

京都国立近代美術館(以下、京都近美)の「セカイノコトワリ-私たちの時代の美術」は、国際的な発表経験のある実力派から気鋭の若手作家まで、20名の国内作家による多様な表現を紹介する展覧会である。世界のグローバル化が進み、日本人作家の海外での発表の機会が増えた1990年代から現在までを視野に入れ、京都近美のコレクション活動の成果を示すことも意図されている(出品作の約1/3が同館の収蔵作品)。この40年程の日本の現代美術を対象に、議論の前提となる「作品体験の共有」の機会として、重要な展覧会となっている。

展示は、「展覧会での鑑賞者の作品体験が、あたかも航海上の潮流やうねり、未知の島との遭遇などを記録した「海図」のような物語として描き出されることを試みます。」(展覧会チラシより)という意図のもとに設定されている。会場を一巡すると、独立したスペースを与えられた作品と、ゆるやかに空間を共有する作品の展示がシームレスに現れ、見応えのある展示が実現している。彫刻、立体、インスタレーション、映像が中心であり、絵画の出品はないが、絵画に通じる表現は随所に潜んでいる。

青山悟 《喜びと恐れのマスク(Kissing)》 展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)

青山悟《喜びと恐れのマスク(Kissing)》は、本展を扇状に広がる世界とすれば、「扇の要」の役割を託された重要作品である。コロナ禍という未曾有の出来事に対する批評的なスタンスを示す本作は、本展副題「私たちの時代の美術」に潜む「私たち」を鋭く照射する。ここで突きつけられるのは、批評の起点となる、ある種の危機意識としての違和感である。人とも、社会とも、世界とも、折り合いがつかない──それなのに、この違和感を誰も理解してくれない──そのどうしようもない感覚を覆い隠すように現れるのが、「私たち」という甘い言葉である。

「私たち」という言葉は、「あなたもそのひとりですよ」と囁き、「あなたもこの展覧会の仲間ですよ」と語りかける。その「私たち」は「マスクをしますか/しませんか」、「現代美術を好きですか/嫌いですか」と迫ってくる。「私」は「私たち」に参加するのかしないのか、選択を迫られる。「私たち」という甘い響きは、「私」を「引き裂く」──たとえ、それがどのような形の結びつきであろうとも。

「私たち」が「私」を「引き裂く」。だから、その誘惑に抵抗し、「私」に留まらねばならない時もある。その態度から、岡林信康の「私たちの望むものは」(1970年)が想起される。この曲では、タイトルに続くフレーズが、前半と後半で反転するが、その反転が起きない一節が曲の中間に位置している。その箇所では、繰り返すことなく変わることと、 「私たち」を求めず「私」に留まることが歌われ、その痛切な響きは、本稿の通奏低音となる。

「引き裂かれる私」は「私」と「私たち」の問題を、「私」と「私以外」の「あなた/誰か」の関係からやり直す、その先にしか、「私たち」は成り立たないのだから。青山の作品が示す、マスクの「私」とマスクの「誰か」の接吻。人と接する「恐れ」は、人と接する「喜び」と溶け合い、二人は「私たち」になり、その関係が持続する可能性が開かれる。「私たち」は、集合体/共同体に限定されるものではない。「私たち」とは、ある結びつきが立ち上がるときに生まれる「関係性」の別名なのだ。

田中功起 《10年間》 展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)

「私たち」が「関係性」の別名であるなら、「私たち」に参加する「私」は、「私」に戻り、別の「私たち」に参加すること、すなわち、別の関係性を結ぶことが可能となる。田中功起の《10年間》は、青山の作品を起点とする、「私の輪郭」=自分が自分である感覚が溶けない形での「関係性」を浮かび上がらせる。10年の時を経て再会する若者たちは、役割が固定されず、その関係は柔軟な流動性を帯びている。田中の作品に集う「私たち」は、会話や行動に潜む「関係性の運動」を示唆している。

原田裕規  《シャドーイング》 展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)

一方、「私の輪郭」が溶け出している感覚を示しているのが、原田裕規の《シャドーイング》である。日系アメリカ人をモデルにCGで造形したデジタルヒューマンに原田の顔の動きを重ね、日系人の朗読とそれを復唱(シャドーイング)する原田の声を重ねた映像は、無数のサンプルから抽出される「類型/タイプ」に見え、未来に向けて遡行する。抽象化/記号化へ向かう力と、「何か」への帰属の意識が同時に可視化されている。未来に向けて遡行する感覚から、原田の《One Million Seeings》や《写真の山》が想起される。人と写真の「関係」が結ばれる時、その「関係性」を起点として、人と写真が「私たち」になる。

 「私たち」が人間に限定されないことが判明し、手塚愛子の作品へと視線が移る。織物を構成する一本の糸が「私」ならば、無数の糸は「私たち」である。「私たち/糸たち」は一枚の織物へと織り込まれ、図像を構成するが、手塚の作品では、その役割から解放された「糸たち」も姿を見せる。色の線として機能しつつ、自重によって垂れ下がる糸は、それ自体の存在を示す。「私たち」は抽象的な概念ではなく、現実の世界に存在する「何か」である。

手塚愛子 《閉じたり開いたり そして勇気について(拗れ)》 
展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)
竹村京 展示風景(手前中央・左壁面) 会場写真 撮影:大町晃平(W)

現実の世界に存在する「何か」には、重力が働き、時にそれは落下する。意図せざる欠損や破損は不条理な出来事であるが、朽ちることも、壊れることも、避けることができない「セカイノコトワリ=世界の理」である。欠損、破損、起きた出来事は変えられないが、受けとめ方なら変えられることを、竹村京の「修復」シリーズが教えてくれる。半透明の薄いヴェールは、ダメージを負った物体の「私の輪郭」を、抱擁するように包み込む。新たな存在感を纏わせる薄いヴェールは、次の言葉における「抱きしめてやり彼に輪郭を与える」役割を担う。

自分を見失い、おびえている子供を癒すのに最良の方法は、抱きしめてやり彼に輪郭を与えてやることだ。(『アートラボ第4回企画展 古橋悌二 LOVERS-永遠の恋人たち』キャノン株式会社アートラボ、1994年)

古橋悌二の映像を見ていると、ビデオ・インスタレーション《LOVERS-永遠の恋人たち》(1994年)の記憶がよみがえる。「彼に輪郭を与えてやる」という一節が、青山、田中、原田を接続する際に浮上した「私の輪郭」と重なり、竹村の薄いヴェールもここで呼び戻される。さらに、ファントム・リム(幻影肢)をモチーフとする小谷元彦の作品からは、「身体の輪郭」の回復への欲望が喚起され、小谷と空間を共有する石原友明の《世界。》は、そこに「世界の輪郭=セカイノリンカク」を描き出す。

石原友明《世界。》(手前)、小谷元彦《Phantom-Limb》(奥壁面)展示風景 
会場写真 撮影:大町晃平(W)

「彼に輪郭を与えてやる」という一節を、森村泰昌の《星男》にも贈りたい。「星男」は、「自我」を求めて虚構と現実の間を彷徨するが、その手がかりとなるはずの「星形」を見つけられない。後頭部を刈り込んだこの星形(自我)は、マン・レイが撮影したデュシャンの写真に由来する。「星男」の彷徨は京都近美に至り、そこで自らの出自に関わるデュシャンの作品と、電撃的な遭遇を果たす。京都近美の展示室でその映像を見る行為もまた、虚構と現実を往還する、稀有な体験となる。

「私の輪郭」は、やなぎみわの作品にも現れている。少女であり老女でもあるという設定の人物は、頭部から黒いテントをかぶり、半身以上が隠れている。黒いテントを纏うことで出現する奇怪な容姿こそが、「自意識/自我/私の輪郭」を形作り、小谷の作品によって喚起された「身体の輪郭」の変容を示している。竹村の作品における薄いヴェールとも重なり、黒いテントに覆われた人物が、傷ついていることが想像される 。「世界は不条理である」ことを体現するかのようなその姿は、風間サチコの作品へも接続される。風間が掘り下げるのは、大航海時代、植民地主義、グローバル資本主義──拡大する不正と不均衡に貫かれた「不条理に満ちた世界」である。支配する「誰か」と支配される「私たち」、支配する「私たち」と支配される「誰か」。

風間サチコ 《McColoniald》シリーズ 展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)

風間の作品と、風間の作品に向き合う空間で展開される笠原恵実子の作品は、石原の作品によって喚起された「世界の輪郭=セカイノリンカク」を、それぞれの方法によって描き出し、近年、批評やキュレーションに対して私が感じている危機感の根拠を炙り出す。本展のキーワードである「日常」「アイデンティティ」「歴史」「身体」「グローバル化社会」は、すべて一般的な概念であり、キュレーションの論点としては大きすぎる。この問題は、グローバル化社会の影響が、批評やキュレーションにも及んでいることを示している。これまで優れた展覧会を手がけてきた本展企画者には、より先鋭的なキュレーションを期待したいところである。本展における風間と笠原の作品は、自らが参画している展覧会のキュレーションさえも、その内側から喝破し、鋭く批評する。

図録に訳出された論考において、アンドレア・フレイザーは、現代美術を「怪物のような世界規模の消化器官」と表現し、あらゆるものを吸収する現代美術が「あまりにも馴染み深い何か」へと変容すると指摘する。この「あまりにも馴染み深い何か」こそが、批評やキュレーションの論点を一般的なものにしてしまう要因のひとつだろう。こうした制度と言説の視点は、ヴィクター・バーギンが『現代美術の迷路』(訳:室井尚+酒井信雄、勁草書房、1994年)において指摘した、現代美術の「意味生成の装置性」とも響き合う。

私の現代美術に対するディストピア的な見解を共有するならば、現代美術とは、あらゆるものを吸収し、芸術の実践や言説、制度を通過させて、あまりにも馴染み深い何かへと変容させる怪物のような世界規模の消化器官である。 (アンドレア・フレイザー「現代美術のフィールド:ダイアグラム」本展図録、184頁)

こうしたフレイザーの表現は、臓器を想起させる西條茜の作品とも共鳴している。《シーシュポスの柘榴》と題された作品は、現実社会における不条理を哲学的思索へと深めたアルベール・カミュの「シーシュポスの神話」を喚起する。「シーシュポスの神話」において、「理」と「不条理」の違いは意味をなさず、「成功/失敗」という価値観も放擲される。例えば、《惑星》と題された作品に息を吹き込む3人は、成功からも失敗からも解放され、ある物体とある行為を共有する「私たち」となるだろう。

西條茜 展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)

身を寄せ合うような姿勢で西條の作品に息を吹き込む3人の姿は、世界の3つの土地で記録された志村信裕の映像作品《Nostalgia, Amnesia》へとつながる。フランス南西部の小さな村で、羊毛を撚る場面に遭遇した志村は、とにかく記録しなければならないという思いに駆られて撮影を開始したという。その衝動自体が、ある種の危機意識に導かれた行為であり、それゆえ、本作は文明批評としての射程を帯びる。成田でのシーンでは、不意にラジオから本田路津子の「一人の手」(1971年)が聴こえてくる。映像との驚くべき符号が感じられる、極めて印象的なシーンである。

「私たち」に対する違和感、共同体や集団において発生するネガティヴな側面への警戒心。志村の映像の中で、それが必然であるかのように流れてきた「一人の手」は、そうした心境に対する不意打ちだった。「私」が「私たち」となることの困難を前にして、「一人の手」が差し出す衒いのない希望を、信じてみる。志村の映像に向き合い「一人の手」に聴き入っていると、河本信治の言葉が脳裏をよぎる。本展が京都近美のコレクション紹介も射程に入れていることを思えば、同館でコレクションをめぐる思考に形を与えてきた河本の一節が、ここで重みを持つ。河本は、自身が企画した「マイ・フェイバリット──とある美術の検索目録から」(2010年)において、「「何か」の発見は一人一人の意思と営為に依存するしかない」と記している。

今回の展覧会のタイトルに「マイ・フェイバリット」という、一人称+極めて主観的な言葉を用いた理由は、「何か」の発見は一人一人の意思と営為に依存するしかないという思いが込められています。(河本信治「とある種別の検索目録、あるいは【その他】への誘い………京都国立近代美術館・所蔵作品目録Ⅷ」(上記展覧会図録、2010年)

本田路津子の歌声と河本の言葉を介して、1970年の岡林信康の「私たちの望むものは」が、2017年のテニスコーツによる演奏と歌唱(全感覚祭2017 OSAKA)によって、改めて響いてくる。誰からも強制されず、「私」が、「私たち」に、自発的に参加し、自発的に離脱する──そんな関係性を夢想する。テニスコーツによる朴訥としたイントロは、「自発的に音を奏でる」感覚を呼び起こす。

「自発的に音を奏で始める」、それは、毛利悠子の《パレード》のことかもしれない。作品を前に、観者は演奏を待つ舞台のような場面に遭遇するが、演奏者は現れないまま音だけが奏でられる。その場に立ち会っていると、まるで、人類が存在しないパラレル・ワールドに遭遇したような気分になる。パ(ラ)レ(ルワ)ー(ル)ド、なるほど、そうだったのか、「パレード」は、パラレル・ワールドに棲んでいて、そこからからやってきて、そこに帰っていく。間違い、エラー、誤作動──そもそも世界は不条理な失敗で溢れている。その感覚を出発点とする、しなやかな「跳躍」が求められている。だが、《パレード》には、祝祭的な華やかさに潜む、そこはかとない侘しさや怖れの感覚もある、ハーメルンの笛吹き男の伝説のような。

毛利悠子 《パレード》 展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)
毛利悠子 《パレード》 展示風景 会場写真 撮影:大町晃平(W)

そこはかとない侘しさや怖れの感覚は、松井智惠の作品にも通底している。《LABOUR》シリーズでは、作家の身体的経験が寓意的に可視化され、《HIMARAYA-KAIDAN》では、床にへばりつくような体勢で階段を昇降する身体の運動が映写される。松井は身体全体で階段を知ろうとし、同時に階段に自らの存在を知らせようとしているように見える。作品と向き合うとは、まさにこうして世界に触れ、触れ返される経験なのだ。

ここに、本展評の核となる、「セカイノコトワリ」の論点が浮上する。眼前の事象をできる限り知ろうとすること。眼前の事象にできる限り自分を知らせようとすること。その相互の行為が、敬意を共有する「関係性」を生み、「私」を「私たち」へと「跳躍」させる。本展は、そのような緊張と可能性を、複数の作品の連なりとして可視化した。その跳躍は、古橋の《LOVERS-永遠の恋人たち》に出現する「DO NOT CROSS THE LINE OR JUMP OVER」に触発されている。「私」が「私たち」へと勇気を持って飛び込むために、超えられない「私の輪郭線(LINE)」を、「跳躍(JUMP OVER)」してみること。その「跳躍」によって開かれた地平において、作品との出会いを通して、作品と作品を結ぶ関係性が次々と立ち上がってくることだろう。

どこから始まったのか。そう、「引き裂かれる」だった。「私たち」が「私」を引き裂く。けれど、「私たち」が「私」を引き裂かない、その可能性もここに見えている。「私」と「あなた/誰か」の関係を、「私」と「他者」としてではなく、「私」と「(パラレル・ワールドの)私」の関係として想像してみる。その誤配にも似た偶然が、「私たち」への「跳躍」を可能にする。最初から間違っている「私たち」は、何度でも間違いながら、その果てに、「何か」を探す旅に出る。いつか、どこかで「跳躍」するために。その船出に喝采を送る、海図を頼りに。


「セカイノコトワリ―私たちの時代の美術」は、 2025年12月20日(土)〜2026年3月8日(日)まで、京都国立近代美術館にて開催。


梅津元:批評家/キュレーター。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了(芸術学)。モダニズム以降の芸術の可能性を探るため、美術、写真、映像、音楽に関わる執筆や企画を中心に領域横断的な活動を展開。 主な近年の企画に「伊東篤宏 anima ex machina」工房親(恵比寿映像祭2026地域連携プログラム/2026年)、「〈うつること〉と〈見えること〉-映像表現をさぐる:60年代から現在へ」大阪市中央公会堂(ART OSAKA 2025 映像プログラム/2025年)など。

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